第二次木津川口の戦い (Second battle of Kizugawaguchi)
第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)は、天正6年11月6日 (旧暦)(1578年12月4日)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。
1576年の第一次木津川口の戦いで毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗したため、織田信長が九鬼嘉隆に命じ、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。
そのサイズは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前絶後の巨大さと防御力を持っていた。
九鬼嘉隆指揮の織田水軍は、石山本願寺支援のため大坂湾に入った毛利水軍と木津川口で海戦となり、織田軍の6隻の鉄甲船に搭載された大筒・大鉄砲の火力の前に毛利水軍・村上水軍600隻は惨敗した。
実際には能島・因島村上水軍は本合戦に間に合わず、乃美・児玉水軍が功に焦って大敗したと思われる。
結果
以上のことが通説とされるが、翌年には毛利水軍は籠城中の三木城への兵糧搬入作戦も大々的に行っており、最近の研究では通説で言われるほどの大敗であったかは疑問とされる。
この戦いの結果、大坂湾の制海権は織田方のものとなったが、依然淡路島西部の制海権は毛利水軍が握っており、淡路島以西に織田氏の勢力が及んだのは1582年に3月に来島通総が離反した一時期だけであった。
しかしこの海戦の結果、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、石山本願寺の士気も低下した。
この戦いから2年の後に顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。