能の歴史 (History of Noh)
能の歴史とは、日本の伝統芸能である能の発展史のことである。
能の起源
能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に大陸より伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。
散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあった。
やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びつき、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。
それらはやがて猿楽と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能の原型がつくられていった。
一方、平安時代中期頃より、神道的宗教行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。
これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。
観阿弥・世阿弥の登場
猿楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼし合い発展していった。
12世紀・13世紀頃から同業組合として「座」が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。
14世紀になると、代わって武家が田楽を保護するようになり、衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。
そのような状況のなか、大和猿楽の一座である結崎座より 観阿弥(觀阿彌)が現れ、旋律にとんだ「曲舞(くせまい)」(白拍子の芸)などを導入して従来の猿楽に大きな革新をもたらした。
このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる催しである。
これは猿楽や田楽の座がお互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の世俗的な成功にを競いしていた。
観世座における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がる為という側面があった。
1375年、将軍足利義満は、京都の今熊野において、観阿弥とその息子の世阿弥(世阿彌)による猿楽を鑑賞した。
彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座(観世座)を庇護した。
この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。
また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは猿楽をさらに洗練していった。
また足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。
こうして歴代の観世大夫たちは時の権力と結びつきながら、現在の能の原型を完成させていった。
なお、室町期に成立した大和猿楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。
それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である。
織豊期の能
戦国時代 (日本)には能の芸の内容に大きな発展は無かったと考えられている。
しかし能は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。
『宇野主水日記』によると、信長は1582年に安土の総見寺で徳川家康とともに梅若家の猿楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われる。
また信長の長男の織田信忠は自ら能を舞ったとの記録がある。
信長に続き日本の最高権力者となった豊臣秀吉は、晩年熱心に能を演じた。
1593年10月には秀吉は後陽成天皇の前で3日間連続で何番もの能や狂言を演じている。
しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の猿楽には興味を示さなかった為、この時期に多くの猿楽の座が消滅していった。
言わば、秀吉によって現在に続く能がそれ以外の猿楽から選別されたのである。
江戸期の能
江戸期には徳川家康や徳川秀忠、徳川家光など歴代の将軍が能を好んだ為、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。
また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。
猿楽師出身でありながら大名にまで出世した間部詮房という人物も知られている。
なお、徳川家も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間に喜多流の創設を認めている。
徳川家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされる。
しかし、徳川綱吉は宝生流を好んだ為、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え能楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。
この結果、現在でも石川県や名古屋は宝生流が盛んな地域である。
その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった。
しかし、謡曲は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。
実際に見る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという。
近代の能
幕府の儀式芸能であった能は、維新後、廃絶の危機に瀕した。
1869年にはエジンバラ公爵の来日に際して能が演じられたが、1872年(明治5年)には能・狂言の「皇上ヲ模擬シ、上ヲ猥涜」するものが禁止された。
さらに、「勧善懲悪ヲ主トス」ることも命じられた。
しかし、明治天皇は1878年には青山御所に能舞台を設置し、数々の能を鑑賞した。
また 岩倉具視は1879年にはユリシーズ・グラントを自邸に招いて能を上演させた。
更に能楽社(のちの能楽会)の設立や芝能楽堂(1881年落成)の建設を進めた。
こうして明治維新直後の危機は過ぎ去ったが、やがて各流派はお互いに排他的姿勢を見せるようになり、流派間の交流や共演は消滅していった。
戦時中の能
その後、軍国主義が激しさを増すと、天皇家を多く題材とした能には厳しい目が注がれるようになり、1939年(昭和14年)、警視庁保安課は不敬を理由に「大原御幸」を上演禁止とした。
その一方で、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を題材とした新作能も作られるようになった。
戦後
第二次世界大戦の敗戦は能界に大きな転機をもたらした。
戦災によって多くの能舞台が焼失した為、それまで流派ごとに分かれて演能を行っていた能楽師たちが、流派の違いを超えて焼け残った能舞台で共同で稽古を行いだしたのである。
その為、若手の能楽師たちは他流派の優秀な能楽師からも教えを受けることが多くなり、大いに刺激を受けるようになった。
観世銕之丞家の次男であった観世栄夫は、この時、観世流と他流の身体論の違いに大きな衝撃を受けた。
結果的に芸養子という形で喜多流に転流して喜多六平太の養子となり、後藤栄夫を名乗った。
また栄夫の弟で八世観世銕之丞となった観世静夫も、この時期の他流との交流開始の衝撃の大きさを語っている。
なお、この時期にこうした交流の場となった能舞台としては多摩川能舞台(現在は銕仙会能楽研修所に移築)などが挙げられている。