補陀落渡海 (Fudaraku-tokai (Crossing the sea to fudaraku [or Potalaka; holy sites associated with Kannon, Deity of Mercy]))

補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。

概要

この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。
その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。
場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。
ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(陀落山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。

最も有名なものは紀伊国(和歌山県)の那智勝浦町における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。
この他、足摺岬、室戸岬、ひたちなか市などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。

熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀落山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀落山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。

補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

渡海船
渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。
鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる。

船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。
すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、死に至るまでそこから出ることは無い。

渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる。

思想的背景

仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。
その原語はサンスクリットの「ポータラカ」である。
補陀落は華厳経によれば、観自在菩薩(観音菩薩)の浄土である。

多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。
古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世国に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。
この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。
また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。
そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の理想郷と浄土とが習合されたのであった。

[English Translation]