解放令 (Kaiho Rei (Emancipation Edict))

解放令(かいほうれい)とは、明治4年8月28日 (旧暦)(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。
正式名称は不明だが当時の法令を収集した政府刊行の法令全書の目録には、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」と書かれいる。
そのため、研究者の間では様々な呼び方があり、「身分解放令」「賎民解放令」と呼ぶ例、中には「解放」の名称を使用せず「賤称廃止令」「廃称令」「廃止令」などと呼称する人々もいる。

解放令の背景と経緯

解放令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。
これは、改革掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、早くから人権の確立や四民平等の必要性を自覚していた層であった。
また、実務面でもその身分の種別数が少ない方が事務処理に便利であるという側面もあった。
だが、この法案では平民の最末尾に元の穢多非人が置かれるなど不十分なものであった。
この案をほぼそのまま継承した「戸籍編成例目」が翌明治3年(1870年)3月に正式に大蔵省から太政官に提出されたが、戸籍を大蔵民部省(当時、大蔵省と民部省が実質統合されていたことから付けられた俗称)が行うことに東京府知事大木喬任を始めとして地方官が反対したことから実現しなかった。

皮肉にも7月になって大久保利通と木戸孝允・大隈重信の対立を原因とする政争の結果、大蔵省首脳が民部省の同じ役職を兼務していたことで統合されていた民部省に新たに東京府知事であった大木喬任が大隈の後任の民部大輔に就任し、吉井友実(少輔)・松方正義(大丞)ら大久保派が就任した。
これを受けて改革掛にいた旧幕臣の杉浦譲が「戸籍編成例目」を手直しして四民平等を前面に出した戸籍法案を建議するものの、大木は大江卓の献言を受けて穢多非人の解放の基本方針には賛成するが、生活改善事業と並行して漸進的に行うべきであり、今回の戸籍制定には関連づけないとして、明治4年(1871年)4月4日に穢多非人を先送りにしたままの戸籍法が制定された。
ところが、その後再度の内紛によって各省の大輔・少輔人事が一旦白紙に戻り、大久保が大蔵卿と就任することと引換に民部省は大蔵省に再統合された。

ところが、今度は全ての無税地を廃止して地租を徴収しようとする地租改正が構想として浮上すると、従来穢地として無税扱いとなっていた穢多非人の所有地からも当然地租を徴収するための大義名分が必要となり、そのために解放令がその格好の口実として白羽の矢が立てられた。
さらに、欧米諸国が解放令を後押ししたことも追い風となった。
欧米諸国はその大半が身分制度を廃し、平等を唱えていた。
このため、欧米列強諸国はこぞって明治政府に対し、キリスト教の容認とともに賤民制廃止を要求したのである。
そして、明治4年8月28日に解放令は公布された。

これによって部落問題が差別から解放されたわけではなく、むしろ江戸時代に有していた所有地の無税扱や死牛馬取得権などの独占権を喪失した事、大木の構想した生活改善事業も行われなかった事により、部落の生活水準は下降した。
また、解放令とともに戸籍法の手直しが行われたものの、現場担当者の事務処理の混乱や意識改革の遅れもあって翌年編製された壬申戸籍における「新平民」表記問題につながることになった。
つまり、渋沢・杉浦の「四民平等」を追求した人権論に根ざした早期開放論も、大木・大江の「生活改善」による格差是正後の漸進開放論も最初から無かった事にされてしまった。
当時の明治政府にとって解放令とは、「四民平等」理念による身分解放ではなく、「地租徴収」実施のためだけに出された形だけの身分解放に他ならなかった。
事実、解放令の後、明治政府は実質的な解放政策を一切行わなかった。
当初から解放令の公布は天皇制の否定に直結しかねない行為であり天皇制と矛盾する、といった意見が明治政府内から数多く出ており、明治政府としては部落解放政策は勿論の事、解放令の存在も到底認めがたい物でしかなかった。

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