謀叛 (Muhon (rebellious acts))
謀叛(むほん)とは、現代の日本語では、家臣が主君に対して企てる反乱のことである。
謀反と同じ。
しかし本来律令制の律が定めた謀叛は意味が異なり、外国と通謀して本国に害をなしたり、亡命したりすることまで含む。
本項目ではもっぱら律の謀叛について述べる。
意味
唐律において謀叛は十悪の第三、養老律令でも八虐の第三となる重罪である。
律で謀とは犯罪の実行に着手に至らない計画のことを言う。
叛は国に背いて偽(敵国・反乱者)に従うこと、反は君主の身に危害を及ぼすことなので、謀反と謀叛は意味が異なる。
謀叛と謀反では、謀反のほうが重い罪である。
叛は具体的には蕃国(外国)に投じること、城や領土を敵に渡すことをいい、現代的に言えば亡命、敵前投降、外敵通謀にあたる。
刑は計画段階でも絞、実行した場合は斬で、死刑に変わりがないため、条文上は謀叛でまとめる。
量刑
唐律でも養老律でも、叛を上道(実行)した場合は主犯・従犯ともに斬とされた。
謀叛にとどまる場合、主犯は絞、従犯は流罪になった。
唐律で流三千里、養老律では遠流である。
いずれも指導者だけが罪とされ、率いられて叛いた者は罪とされない。
外国ではなく山沢に逃亡し(亡命山沢)、官吏に呼ばれても帰らないときには、謀叛と同じ扱いになった。
つまり、首謀者のみ絞、従犯は流刑である。
連れ戻しに来た軍隊に対して抵抗したときには、叛の上道と同じ扱いで、主犯・従犯ともに斬となった。
率いられた者が罪とされないのは同様である。
縁座(親族の連座)は、実行時にのみ発生し、率いた人数と武力行使の程度によって3段階に分かれた。
もっとも重いのは、城を攻略してそれを拒守した場合で、謀反と同じになる。
これは、領土を実際に奪った罪を特に重くした区分である。
中間は、攻撃・虜掠をしたか、攻撃の有無に関わらす規定人数(唐律では100人、養老律では10人)以上を率いて叛いたものの、城を拒守することまではしなかった場合である。
軽いのは、規定人数未満を率い、害を加えなかった場合である。
いずれにせよ本人は死刑になるが、縁座には以下のような細かな違いが生じる。
唐律で謀反と同じになると、父と年16以上の子(子は息子のこと。以下同じ)が絞になり、年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、部曲(隷属民)、資財、田宅が没官になった。
没官は官への没収で、人について言えば官戸にすることである。
伯叔父、兄弟の子は流三千里(三千里の流刑)になった。
中間の場合には、父母、妻、子が流三千里になった。
軽い場合には、妻と子(息子)が流二千里になった。
養老律で謀反と同じになると、父子、家人(唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。
祖孫・兄弟は遠流である。
中間の場合は父と息子が遠流、軽い場合には子が中流であった。
日本のほうが縁座の範囲が狭く軽い。
日本における実情
日本では外敵通謀と言う意味での謀叛はめったに起きなかった。
8世紀初めには、慶雲4年(707年)、和銅元年(708年)、養老元年(717年)と、百日以内に出頭すれば亡命山沢の罪を赦すという詔が出たが、それは大赦の一部で唐の詔を引き写したものである。
平安時代後期以降は、謀反と謀叛の区別はなくなり、両方とも主君や君主への敵対を指すようになった。