貞観の治 (Jogan no chi (Glorious Jogan rule))
貞観の治(じょうがんのち)とは中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗 (唐)の治世、貞観 (唐)(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。
この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われた。
後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であった。
その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」
(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。
家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。
この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられた。
長く政治のテキストとして用いられた。
日本の「貞観の治」
日本でも平安時代初期、清和天皇の代に貞観 (日本)という元号があり、「貞観の治」と呼ばれる治世が存在した。
この時代は、前の天皇、文徳天皇朝で人臣初めて(藤原仲麻呂・道鏡は除く)の太政大臣に就任した藤原良房とその養子(甥)の藤原基経が、初期摂関政治等藤原氏の権勢を固めた時代だった。
だが、疫病の流行、富士山の爆発があった。
応天門の変等不安定要素も抱えながらも、開墾奨励策や貞観格式の編纂、貞観永宝の鋳造等積極的な政策が採られ、政治は安定していた。
876年(貞観18年)、清和天皇は皇子の貞明親王(陽成天皇)に譲位、伯父の基経は摂政となった。
実父の故・藤原長良は天皇の外祖父として正一位太政大臣を追贈された。
が、翌877年に19年間続いた貞観の年号は元慶に改元された。