赤備え (Akazonae (red arms))

赤備え(あかぞなえ)は戦国時代 (日本)の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成の事。
戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時赤は高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。
赤備えを最初に率いた武将は武田氏に仕えた虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞とされる。

武田の赤備え

武田軍にて赤備えを最初に率いたのは後代に『甲山の猛虎』とも謳われた飯富虎昌である。
永禄8年(1565年)に虎昌が義信事件に連座し切腹すると、虎昌の部隊は彼の実弟(甥とも)とされる山県昌景が引継ぎ、同時に赤備えも継承したという。
飯富虎昌・山県昌景の両者は『甲陽軍艦』において武勇に秀でるとともに武田家及び武田軍の中心として活躍した武将として記されており、両名の活躍が赤備えの価値を高めたと言える。
また、『軍鑑』によれば武田家中ではこの2将以外にも小幡信貞、浅利信種の2名が自部隊を赤備えとしたという。

発給文書においては、元亀3年・天正2年の武田信豊宛武田家朱印状など武田氏の軍制において装備外装に関する規定が存在していたことを示す文書が見られる。
元亀3年文書では信玄が信豊に対し装備を朱色で統一することを独占的に認められており、天正2年文書では武田勝頼により信豊の一手衆が黒出立を使用することを許可されており(これは『軍鑑』や『信長公記』長篠合戦時における記述と符号している)、武田軍では一手衆ごとに色彩を含めて兵装の規格化が整えられていたと考えられている。

井伊の赤備え

武田氏滅亡後、本能寺の変の混乱を経て甲斐国は徳川家康によって平定されるが、その折に武田家の旧臣達を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政である。
武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。
井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。
以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。

家康が大坂の役の折、煌びやかな直孝隊を見て平和な時代で堕ちた赤備えを嘆いた。
その中で使い古された具足を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣団であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。

1866年(慶応2年)の長州征討では井伊直憲率いる彦根藩が芸州口の先鋒を務めた。
長州藩のミニエー銃に対し、彦根藩は赤備えに火縄銃という古来より伝わる兵装で挑むが、小瀬川を渡ろうとした所を長州軍石川小五郎率いる遊撃隊のアウトレンジ戦法を受け一方的に敗れる。
この時、赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず長州軍の狙撃を容易にした。
この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。

真田の赤備え

慶長20年(1615年)大坂の役大坂夏の陣において真田信繁(幸村)が編成した。
敗色濃厚な豊臣氏の誘いに乗って大坂城に入った信繁の真意は、恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示す事だったと言われている。
武田家伝統の赤備えで編成した真田信繁隊は、天王寺・岡山の戦い天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、『真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由』と薩摩旧記(島津家)に賞賛される活躍を見せた。

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