重臣会議 (Senior Statesmen's Conference)
重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和時代に元老の職掌を引き継ぐ形で、後継の内閣総理大臣の選定や国家の重要事項に関して、天皇の諮問に答える形で開かれた会議。
構成要員は内閣総理大臣経験者及び枢密院 (日本)議長とされている。
太平洋戦争終結まで度々開催されている。
沿革
明治時代以後、内閣総理大臣の選定は元老によって行われてきたが、大正時代末期には元老が西園寺公望ただ一人となった。
西園寺は古い元老制度を廃止するためあえて元老の追加には同意しなかったが(山本権兵衛などが候補としてあげられた)、五・一五事件による政党内閣の崩壊と軍部の台頭、自身の高齢化によって西園寺単独による後継選定は不可能な状態となった。
そこで、昭和8年(1933年)に西園寺を助ける目的で「重臣」制度が設けられて、総理大臣経験者と枢密院議長が元老西園寺とともに会議を開いて後継選定を図ることにしたのが始まりである(五・一五事件後の後継首相奏薦にあたっても元老は首相経験者から意見を聴取しているが、正式な手続きとして定められたものではなかった)。
しかし、二・二六事件による岡田内閣総辞職の際には重臣会議は開催されず、阿部内閣成立時までその形式が続いている。
米内内閣成立の際は内大臣が一部の重臣から意見を聴取しており、米内内閣総辞職の後に再び重臣会議が開かれるようになった。
1940年11月の西園寺の死後は内大臣が重臣会議を招集して、重臣達に対して後継総理大臣の選定などを諮問する形式へと変更されることになった。
1945年4月の鈴木貫太郎内閣成立時までこの形式が継続した。
同年8月15日の鈴木内閣総辞職時には緊急時のこととて重臣会議は招集されず、連合国軍最高司令官総司令部の進駐によって重臣会議の権限は消滅したとされる。
次期首相奏薦に伴う重臣会議の出席者
1934年7月 斎藤実・清浦奎吾・若槻礼次郎・高橋是清・一木喜徳郎(枢密院議長・以下枢相)・牧野伸顕(内大臣府)・西園寺公望(元老)
- 岡田啓介を奏薦
1940年7月 若槻・岡田・広田弘毅・林銑十郎・平沼騏一郎・近衛文麿・原嘉道(枢相)・木戸幸一(内大臣)
- 近衛文麿を奏薦
1941年7月 若槻・岡田・広田・阿部信行・米内光政・原(枢相)・木戸(内大臣)
- 近衛文麿を奏薦
1941年10月 清浦・若槻・岡田・広田・林・阿部・米内・原(枢相)・木戸(内大臣)
- 東條英機を奏薦
1944年7月 若槻・岡田・広田・近衛・阿部・米内・原(枢相)・木戸(内大臣)・百武三郎(侍従長)
- 小磯国昭を奏薦
1945年4月 若槻・岡田・広田・近衛・平沼・東條・鈴木貫太郎(枢相)・木戸(内大臣)
- 鈴木貫太郎を奏薦
補足
制度導入当初は、重臣とは「内閣総理大臣の前官礼遇を賜りたる者及び枢密院議長」であったが、1940年に単純に「首相経験者及び枢密院議長」に改正された。
前官礼遇を受けるには一定期間の在任が必要で、陸軍出身の首相である林銑十郎と阿部信行がその条件を満たしていなかったために、陸軍への配慮から改正されたという(前官礼遇とは首相・国務大臣等の要職を一定期間経験したものに対して現職者に準じる礼遇を賜る当時の制度である)。
重臣会議のメンバーは公式な重臣会議以外にも重臣グループとして政治的活動をすることが多かった。
たとえば、岡田啓介が中心となって東條内閣倒閣運動が行われた。
また、天皇や首相が重臣から意見を聞くことも行われていた。
近衛文麿が有名な「近衛上奏文」を奏上したのはそのような折のことである。
退陣する首相が重臣会議に出席した例は1934年の斎藤実しかない。
米内光政と東條英機は、自らの路線を否定されて辞めるので出席しても仕方がないというケースであるが、第3次近衛内閣総辞職時の近衛文麿は病欠で「91歳の清浦奎吾より悪いのか」と批判された。