鉄甲船 (Tekkosen (armored warships))
鉄甲船(てっこうせん)とは、織田信長が九鬼嘉隆に命じて、毛利水軍・村上水軍に対抗するために建造させた大型の安宅船である。
村上水軍が得意とする焙烙火矢による攻撃に対抗するため、船全体を防火用の鉄板で覆ったものであったと伝えられる。
実在には議論がある。
概要
一説には大筒3門の他、大鉄砲を多数備え、船体に厚さ3mmの鉄板を鋲で貼り付けた長さ12~13間(21.8m~23.6m)、幅7間(12.7m)の1500石積みの巨船といわれている。
別名大安宅船と言われる。
木津川の合戦に使われた船については信長公記、多聞院日記やオルガンティノの報告書などに記載が見られるが、寸法・装備などその実態については詳らかでない。
信長公記やオルガンティノの報告書など当船について比較的詳細に述べられている資料には装甲についての記載がなく、鉄の装甲の実態については不明である。
唯一多門院日記に伝聞として「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意敷儀なり」との記載があることが、同時代の資料において船体に鉄の装甲を施した船であると解釈できる部分である。
宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノはルイス・フロイス宛の報告書の中で「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」と述べている。
海上封鎖のバリケードとして織田信長の命で九鬼嘉隆により伊勢で6隻建造され、大阪湾へ向う途上に雑賀・谷輪の水軍と戦いこれを破り、第二次木津川口の戦いにおいてはたった6隻で600隻もの毛利水軍の船団を壊滅させたといわれている。
これは嘉隆の志摩の荒い海で鍛えられた操縦のため。
信長の死後は大阪湾に投錨したまま放棄され、朽ちていったと言う話と解体されて数隻の小早等に作り直された話等も伝わっている。
、徳川秀忠が幕府御船手頭向井忠勝に建造させた史上最大級の安宅船「安宅丸」は、総櫓及び船体の総てに防火・防蝕を目的とした銅板貼りが施されていた事が幕府の公式な記録から確認されており、1635年当時、軍船の表面に金属板を貼るという発想が存在していた事そのものは疑いがたい事実と言えよう。
また天正元年(1573年)には琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、長さ三十間(約55m)幅7間(約13m)櫓百挺立て、軸櫓に矢倉を設けた大船が建造された例が存在する(信長公記より)。
擬装は安土城を手がけた城大工、岡部又右衛門が担当した。
大津か坂本との間を京洛への往来に用いていたという。
この船が鉄板張りであったか否かは定かでない。
後年、九鬼家は伊勢の大湊 (伊勢市)において、鉄甲船とほぼ同水準とみられる安宅船を建造し「鬼宿(おにやど)」と名付けたが、この船の威容をいたく気に入った豊臣秀吉は、文禄・慶長の役の際の旗船としてこれを採用し、旗船の証である茜の吹流しと金団扇の馬印を授け、船名も「日本丸(にっぽんまる)」と改称させた。
1500石積、長さ34m、幅9.5m、乗員180人、櫓100挺立てであったと言われる。
日本丸は江戸時代に入った後も現役の軍船として就役していたが、500石積み60挺立の船に縮小改造され、「大竜丸」と、改名を重ねる事になった。
「大竜丸」となった後は、新たに竜頭の彫刻が船首に追加されていたという。
前述の通り、1635年、江戸幕府は史上最大の安宅船である安宅丸を建造し、鉄甲船と同様の考えから銅板を貼っている。
鉄板では海水によって腐食するため長期の運用は不可能であり、そのため銅板に換えたと考えられ、鉄甲船からの順当な発展型と言える。
しかしながら幕府の財政難により1682年に解体されてしまい、鉄甲船の系譜はこれで途絶える事となった。
鉄甲船にまつわる疑問点
鉄甲船の動力は通常の安宅船と同じく櫓、および起倒式の木綿帆によるものと推定されているが、鉄板によって重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明である。
伊勢から熊野灘を経由して大阪湾に回航しているが、鉄板でトップヘビーになった船が波の荒い熊野灘を通り抜け出来るのかどうか疑問視する声もある。
実際に木津川をこの6隻を主力として封鎖できたかも不明である。
第二次木津川口の戦いで敗北した毛利水軍であったが、翌年には三木城へ兵糧を運び入れる等、活発な活動を見せており、信長公記に見られるような一方的大勝利であったかも疑問とされている。