銅鏡 (Bronze mirror)
銅鏡(どうきょう)は、銅合金製の鏡である。
銅鏡は各時代に製作されたが、歴史・考古学用語としては中国、朝鮮、日本の遺跡から発掘される青銅製の鏡を指すことが多い。
概要
古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用された。
古代エジプトにおいても、青銅製の鏡を用いた事例がある。
宗教・祭祀用具としての機能をもち、近代に西洋よりガラス鏡が伝来普及するまで一般に広く使われていた。
日本の近世では、大名などの婚礼の嫁入り道具として銅鏡などが残されている。
製作は、鋳型に鋳造したのち研磨、錫メッキ、研磨という手順で作られる。
鏡の研磨には古くはカタバミやザクロが用いられた。
含まれているシュウ酸などによって曇りの原因となる汚れが取り除かれ、輝きが蘇った。
元禄頃からは、水銀に錫の粉末を混ぜてアマルガムを作り、これに梅酢を加えて砥ぐようになった。
クエン酸で表面の汚れが除去され、そこに錫アマルガムが付着することでメッキ状態になり、美しい鏡面が得られた。
中国
中国では戦国時代 (中国)から唐時代に主に製作された。
形態は円形が多く(まれに方鏡もある)、直径は数十cm程度である。
磨かれた鏡面の裏側には中心に鈕(つまみ)があり、その周囲にさまざまな画像や文様が鋳出されている。
古代中国製の銅鏡には、神像と動物文を鋳出した神獣鏡が多く、その他、背面の文様によって「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」「海獣葡萄鏡」「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」などさまざまな形式に分類されている。
用途としては、現在使われている鏡のように単純に物の姿を映し出す道具としてではなく、祭祀・呪術用の道具として用いられたと考えられている。
鏡師
鏡づくりの工人のことを鏡師という。
「師」は鏡の銘文によく出てくる字で鏡師のことである。
鏡の銘文中では、「京師」は都の鏡づくり師であり、「州師」は州の鏡づくり師の意に解せられる場合が多い。
日本
日本においては、弥生時代から古墳時代の遺跡で多くの銅鏡が発掘されている。
出土する鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡と、それを模した国産の仿製鏡(ほうせいきょう)に分類される。
種類としては、北部九州の弥生遺跡から出土する方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。
弥生時代
銅鏡は、銅鐸とともに弥生時代を特徴づける出土品とされ、分布により銅鏡・銅鐸文化圏などが論じられている。
弥生時代の中期、北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。
銅鏡は宝器として珍重され、後期になって副葬され始めるようになった後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が刻まれ、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった。
また、誰でもが銅鏡を所有出来るのではなく、有力者や司祭者などに限られていた。
北部九州でも玄界灘沿岸の地域では、須玖・岡本遺跡や三雲遺跡などで20枚とか30枚もの大量の鏡を副葬した甕棺があり、王の墓の豪華さが分かる。
墓に銅鏡を副葬するという風習は、古墳時代にも引き継がれて、全国に広まった。
古墳時代
副葬品としての鏡は、前・中・後期には、いわゆる漢鏡もしくは漢式鏡であったが、終末期古墳では隋・唐鏡になっている。
古墳時代前期では、椿井大塚山古墳の36面、奈良県広陵町の新山古墳の34面、佐味田宝塚古墳の約30面、大和天神山古墳の23面、大阪羽曳野市の御旅山古墳の22面、紫金山古墳の12面、岡山県備前市の鶴山古墳の30面、備前車塚の13面、愛知県犬山市の東之宮古墳の11面、桜井茶臼山古墳の13面(盗掘を逃れた数)などが出土した。
これは、銅鏡を棺の中に入れて死者と共に埋めるという倭人特有の習俗とみられる。
この時代の銅鏡の中には、中国大陸の年号が銘されている紀年鏡が13枚のうち12枚が含まれており、出土した古墳やその他の副葬品が製造された年代を推定するための参考資料とされている。
魏 (三国)の年号の銘が入った紀年鏡
青龍_(魏)三年(西暦235年)方格規矩四神鏡が2面。
景初三年(西暦239年)三角縁神獣鏡と神獣鏡種類、画文帯神獣鏡(大阪府和泉市黄金塚古墳)が、各1面ずつ。
景初四年(年号は正始_(魏)に変わり存在しないが西暦240年を指す。)三角縁盤龍鏡2面。
正始元年(西暦240年)三角縁神獣鏡3面。
呉 (三国)の年号の銘が入った紀年鏡
赤烏元年(西暦238年) 神獣鏡種類が1面。
赤烏七年(西暦245年) 神獣鏡種類が1面。
西晋の年号の銘が入った紀年鏡
元康_(晋)?年(291~299年)の神獣鏡種類が1面。
『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」によると、西暦239年に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使をした際、帝から「親魏倭王」金印と銅鏡百枚などを授かったという。
この記述から、銅鏡は邪馬台国の所在地を決定づける手掛かりになるのではないかと期待されている。
京都府の椿井大塚山古墳および奈良県の黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡のいずれかがこれに該当するものではないかと言われているが、古くから論争が繰り広げられており、結論は出ていない。
飛鳥以降
万葉集にも「白銅鏡」(まそかがみ)が多くの歌に詠み込まれている。
平安時代以降は、鏡背に鶴、鴛鴦(おしどり)、菊、桐などの日本式の文様を表した「和鏡」も製作された。
信仰対象としての銅鏡
日本においては、鏡は神道の信仰の対象となっている。
日本神話に登場するものとしては、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。
平安時代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展した。
江戸時代にはキリスト教禁止により隠れ切支丹鏡などが製作された。