銅鐸 (Dotaku)
銅鐸(どうたく)とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器のこと。
概要
銅鐸は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって作り用いられた祭器である。
これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。
主な出土数は以下の通り(平成13年3月末 文化庁調べ)
兵庫県 56点
島根県 54点
徳島県 42点
滋賀県 41点
和歌山県 41点
大きさについては12センチから1メートルを越すものまである。
1世紀頃には高さが60センチに達し、さらに大型化が進み、2世紀には1メートルを超え、最終的には134センチに達する。
しかし、その直後鋳造が止んでいる。
現存する最大は、144センチ、45キログラムに達する(滋賀県野洲市野洲町大岩山1881年出土1号銅鐸)。
近畿地方で生産されたものは表面に必ず文様がつけられている。
文様で一番多いのが、袈裟襷文(けさだすきもん)で、縦の文様帯と横の文様帯とを交差させている。
その前は流水文であった。
最古級の銅鐸は、縦文様帯と横文様帯を持つ四区袈裟襷文で飾っている。
また、吊り下げる鈕の断面形が菱形となっている(菱環鈕式りょうかんちゅうしき)。
しかし、大阪府東奈良遺跡から出土した小銅鐸の鈕の断面形が円形である。
その後、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式と変遷する。
その後鐸自身が大型化し、表面に飾りが加わる。
紀元前2世紀後半頃40センチを超す大型銅鐸が現れ、流水文が採用されている。
この文様は紀元前1世紀頃に衰退する。
当時の家屋など弥生時代の習俗の様子を描いた原始的な絵画が鋳出されているものもある。
歴史
中国の銅鈴が起源とされるが、日本で出土する形状に類似するものは見つかっていない。
また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土する。
それらの影響は考えられるが、その後日本の銅鐸は日本で独自に発達した。
1世紀末ごろを境にして急に大型化する。
この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。
近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている。
近畿式は、近畿一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、北は山陰地域に、三遠式は、東は信濃・遠江、西は濃尾平野を一応の限界とし、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・京都府北部の日本海岸にそれぞれ分布する。
それぞれの銅鐸は2世紀代に盛んに創られた。
2世紀末葉になると近畿式のみとなる。
銅鐸はさらに大型化するが、3世紀になると突然造られなくなる。
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。
ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。
『続日本紀』には、和銅6年、大和宇波郷のひとが長岡野において発見した記事があり、『日本記略』には、弘仁12年、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
用途
現在のところ用途は未だ定かではないが、出土状況や表面に遺された痕跡などから使用方法はある程度明らかにされている。
銅鐸はその形状ゆえ、初期の小型の物は鈕の内側に紐などを通して吊るし、舞上面に開けられた穴から木や石、鹿角製の「舌(ぜつ)」を垂らして胴体部分か、あるいは「舌」そのものを揺らし、内部で胴体部分の内面突帯と接触させる事で鳴らされたと考えられる(西洋の鐘と同じ)。
これは鈕の下部及び側面に紐で長期間吊るされた事による「擦れ」と考えられる痕跡や、内部の突帯に舌が当たった為にできたと思われる凹みの形での損傷が確認される銅鐸があるためであり、梵鐘のように胴体部の外面を叩く事でできたと考えられる痕跡のある物はないため、そのように鳴らしたような再現図は誤りである。
なお、銅鐸を「鳴らす」段階にあってはこの内面突帯の摩滅を軽減するため、この内面突帯を二本に増やした物が銅鐸の発達と共に増えていく。
1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的な物への変化が見られることから、(後述のように異論はあるが、)音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したのではないかと言われている。
これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(田中琢)、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。
また、すでに鳴らす事を放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)された物もある。
これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた例と言えるだろう。
埋納状況
埋納状況については村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多い(逆さまに埋められた物も二例ある)。
一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。
あまり注目される事が無いが頂上からの出土が無いことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。
土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんど無く、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(弥生時代の墓制墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。
なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。
銅鐸を埋納したことの理由については以下のように諸説ある。
米や穀物の豊穣を祈って拝んだのではないかと言う説。
しかし、これには反論があり「祭るための宝物ならそれなりの扱いを受けるはずで、そのような施しは見受けられない」ということである。
だが、この場合の「施し」というものが具体的にどのような痕跡を指すのかが問題である。
平時は地中に埋納し、祭儀等の必要な時に掘り出して使用したが、祭儀方式や信仰の変化により使われなくなり、やがて埋納されたまま忘れ去られたとする説(松本清張等)。
特に「聞く銅鐸」の紋様の不鮮明さは埋納時から発掘までの土中での経年劣化ではなく、磨く等の行為によるものとされており(佐原真)、祭りの度に繰り返し掘り出し磨かれたためという。
かつての東南アジア方面(ベトナム等、しかし現在は不明)の銅鼓も日ごろ地中に埋めてあり、祭りの時や葬儀の時取り出して使用していたという。
大変事にあたり神に奉納したのではないかという説。
しかし十数個同時に出土する例は「大変事」の規模にあわせたために大量に埋納したのか、全国各地で出土するのは全国規模で弥生時代を通して「大変事」が頻発したのか、等を埋納状況などを踏まえた上で考える必要がある。
地霊を鎮めるために銅器を埋納した風習という説。
古代華南にそのような風習が見られた。
文字の未だ定まっていない時代に、任命書に代えて鏡ではなく銅鐸を授与したという説。
だが、そもそも鏡を任命書として与えるような権力者、集団が当時日本列島に存在したかがまず問題である。
(古墳時代には同盟集団に配布したと思しき例が少なからずあるようである。)
また、銅鐸の製造集団の負う文化的背景に由来すると思われる地域的な銅鐸の特徴差について考慮を全く欠いているという批判がある。
銅鐸を祭る当時の列島の信仰的背景とは著しく異なる文化を持った外敵が攻めて来た等の社会的な変動が起きた時に、銅鐸の所有者が土中に隠匿して退散したという説(古田武彦等)。
この「外敵」を後世の有力集団の祖先に擬する説もある。
しかし、全国的に似たような埋納のされ方なので、慌てて隠したのであればいろいろな埋め方があるはず、という反論がある。
また、その外敵が銅鐸祭祀を否定する集団で、支配下に置いた地域の住民に銅鐸祭祀を放棄させたと考えれば、銅鐸が壊れた状態で出土することや、三世紀に急速に銅鐸祭祀が廃れたこと、銅鐸の用途が全く伝わっていないことなどに説明が付くという説もある。
政治的な社会変動により、不要なものとして(多数の場合は一括して)埋納したという説(三品影映・小林行雄等)。
つまり、弥生時代の個々の村落を統合する新しい支配者が現れる等して人々がより大きな集団を構成する際に、それまでのそれぞれの共同体の祭儀から専制的権力者の祭儀への変化が起き、各々の村落で使われていた銅鐸を埋納したというものである。
その際、集落によっては銅鐸を壊す等の行為もあったと思われ、一部の破壊銅鐸の出土はこのような理由によるとする。
また、この社会・祭儀の変化とは次の古墳時代への変化のことと関連付けられる事が多い。
しかし、遺跡ごとに用途・保管方法や埋納の事情は異なっていたと考えられるため、すべての銅鐸を一律に論じる事は危険である。
銅について
弥生時代初期とされる青銅器の鉛同位体を測定すると、殷(商)・周(西周)時代の青銅器と鉛同位体の比率などがほぼ一致しており、この鉛は他の地域時代にて青銅器として見られることがないため、中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器等を鋳直して作成されたとする説がある。
なお、日本での銅の史料上の記述は和銅元年(708年)が初見。
銅鐸文化圏と銅矛文化圏
かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。
そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。
(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。)
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な例が吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。
しかし、現在でもこれらの出土分布の大勢に変わりはない。
著名な銅鐸
桜ヶ丘出土銅鐸銅戈群
- 国宝、神戸市灘区出土、神戸市立博物館所蔵
- ‐袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸11口、流水文銅鐸3口を含む一括資料。
14口の銅鐸のうち、特に4号銅鐸と5号銅鐸は人物、動物などの略画が鋳出されたもので、資料的に貴重である。
袈裟襷文銅鐸
- 国宝、伝香川県出土、東京国立博物館所蔵
- ‐桜ヶ丘出土銅鐸と類似した略画が鋳出された銅鐸。
荒神谷遺跡出土品
- 国宝、島根県簸川郡斐川町出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館ほか保管)
- ‐尾根の斜面から銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6口が出土した。
畿内を中心に出土する銅鐸、北九州を中心に出土する銅矛、出雲地方特有の形式をもつ銅剣が同一遺跡から、しかも大量に出土したという点で学術的価値が高い。
日本式最古の銅鐸とされる。
大岩山出土銅鐸群
- 重要文化財、滋賀県立安土城考古博物館、東京国立博物館、辰馬考古資料館、野洲市立歴史民俗資料館(銅鐸博物館)ほか所蔵
- ‐滋賀県野洲市小篠原大岩山から1881年(明治14年)に14口、1962年(昭和37年)に10口出土した銅鐸群。
東京国立博物館所蔵の2口のうちの1口は高さ135センチの日本最大の銅鐸である。
加茂岩倉遺跡出土銅鐸群
- 国宝、島根県雲南市(旧大原郡加茂町 (島根県))出土、文化庁所蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
- ‐1996年(平成8年)に発見されたもので、1つの遺跡からの出土例としては日本最多の39口が出土した。
突線流水文銅鐸
- 重要文化財、岡山市高塚遺跡出土、岡山県立博物館所蔵
突線袈裟襷文銅鐸
- 重要文化財、徳島市矢野遺跡出土、徳島市立考古資料館保管