錦の御旗 (Nishiki no mihata (The Imperial Standard))
錦の御旗(にしきのみはた)とは、朝廷の軍(官軍)の旗印。
略称錦旗(きんき)、別名菊章旗。
赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。
朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に下賜する慣習がある。
承久の乱(1221年(承久3年))に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、歴史上の錦旗の初見とされる。
戊辰戦争と錦の御旗
1868年(慶応4年)正月、鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた。
この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に調製を委嘱された物であった。
岩倉の腹心玉松操のデザインを元を作った。
大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で密造させた。
もう半分は数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てた。
その後戊辰戦争の各地の戦いで薩長両軍を中心に使用された。
官軍の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場となった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与えた。
当時土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、錦の御旗を知らしめただけで前線の幕府兵達が「このままでは朝敵になってしまう」と青ざめて退却する場面を目撃している。
戊辰戦争に使用された各種錦旗及び軍旗類は、明治維新後は陸軍省の遊就館や宮内省図書寮に保存された。
1888年(明治21年)政府は、長州藩出身の絵師、浮田可成(うきたかせい)に旗の絵を描かせた。
それらは17種34枚の絵図に図化され、『戊辰所用錦旗及軍旗真図』(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)4巻にまとめられた。
錦旗革命事件
大川周明は、共産主義革命に対抗して天皇を頂点とする「錦旗革命(きんきかくめい)」を起こして、日本を正しい方向に導くべきだと唱えた。
このため、大川自身も計画に参加した大日本帝国陸軍将校によるクーデター計画・十月事件を「錦旗革命事件」とも称する。