長篠の戦い (Battle of Nagashino)
長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日 (旧暦)(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。
通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされる。
しかし、様々な論点に異論が存在する。
開戦まで
1573年8月、武田家家臣であった奥平貞昌(後の奥平信昌)は武田信玄の死に際し、父・奥平貞能の英断により一族郎党を連れて徳川方へ寝返る。
家康は武田家より手に入れたばかりの長篠城に貞昌を配した(つまり対武田の前線に置いた)。
このため、2年後の1575年4月、武田勝頼は1万5000と号する大軍を率いて長篠城を包囲する。
長篠城攻城戦
武田の大軍に対して長篠城は500の寡兵に過ぎなかった。
だが200挺の鉄砲や大鉄砲を有しており、抵抗は激しく武田軍を苦しめた。
しかし、兵糧蔵を落とされたことで数日以内に援軍が来なければ落城必至という状況に追い詰められた。
貞昌の家臣・鳥居強右衛門が密かに脱出し、岡崎城の家康に後詰を要請した。
予め家康は織田家に援軍を要請していた。
信長は既に5月13日には3万の軍勢を率いて岐阜を出発し、岡崎城に到着していた。
なお、援軍が来ることを伝えるべく即日、長篠城に向かった鳥居だったが、武田軍に捕らえられてしまう。
武田方は城兵の士気を挫くべく「援軍は来ない」と伝えれば助命すると提案し、これを鳥居は承諾する。
しかし、鳥居は直前で約定を反故にし「援軍は数日以内に来る」と伝えて城の士気を高めたため、処刑されたという逸話が残っている。
信長軍団の到着
信長軍3万と家康軍8000は、長篠城手前の設楽原に着陣。
設楽原は原と言っても川に沿って丘陵地が幾つも連なる場所であって、相手陣の深遠まで見渡せるほど視界の良い場所ではなかった。
だが、信長はこの地を戦地に選定し、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。
これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁に馬防柵を敷くという当時の日本としては異例の野戦築城だった。
つまり、信長側は無防備に近い鉄砲隊を主力としてこれを守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとった。
一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。
信玄時代からの重鎮たち、特に武田四天王といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌豊らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われる。
だが、勝頼は決戦を行うことを決定する。
そして長篠城の牽制に3000ほどを置き、残り1万2000を設楽原に向けた。
これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒を飲んで決別したとも言う。
信長は、本来であれば虚勢を張ったりして自軍を強く見せるのが戦の常であるにも関わらず、逆に弱いと吹聴して回ったとされる。
相手の油断を誘ったという面もある。
しかし、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田の騎馬隊を誘い込む狙いであった。
鳶ヶ巣山攻防戦
5月20日 (旧暦)夜、酒井忠次率いる東三河衆の他、織田軍・金森長近などの与力、また鉄砲500丁を持たせた計約3000名という連合軍の大部隊(『信長公記』によると約4000名)が、密かに豊川を渡河。
長篠城近辺に留まる武田支軍に対し、尾根伝いに南側から後方へ回り込んだ。
翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。
鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦で、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ヶ伏所砦という構成であった。
奇襲の成功により全て落とされる。
これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。
さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討した。
このことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。
この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方は、主将の河窪信実をはじめ、三枝守友、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死。
武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却した。
しかし、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても高坂昌澄が討ち取られている。
このように酒井隊の一方的な展開となった。
ただし先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平家松平伊忠だけは、退却する小山田昌行に反撃されて討死している。
そもそも、この作戦は20日夜の合同軍議中での酒井忠次による発案であったが、信長に一蹴されたという。
ところが、軍議を終えてすぐに信長は酒井を密かに呼びつけ、作戦の決行を命じた。
武田軍の諜報を案じて、軍議では敢えて採用しなかったのが理由であるという。
設楽原決戦
5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃、退路を脅かされることを恐れた武田軍が動き合戦が開始される。
織田・徳川連合軍3万8000と武田軍1万2000による戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)。
結果は織田・徳川軍の勝利であったが、6000近い犠牲者を出した。
一方の武田軍は1万2000の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
だが、織田・徳川軍の戦死者が名も無き足軽雑兵(特に織田軍はほとんどが領民ではなく傭兵)であった。
対し、武田軍の戦死者は武田四天王の山県、内藤、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継という顔ぶれであった。
被害は甚大であった。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、高遠城に後退。
上杉謙信と和睦し、上杉の抑え部隊1万を率いる高坂昌信と合流後、甲斐に退却した。
織田・徳川方の3000丁という量の鉄砲、さらに鉄砲隊を3つに分け、鉄砲の弾込めによるタイムロスをなくす三段撃ち戦法で、最強と呼ばれた武田の騎馬隊を破ったというのが有名な通説である。
だが、3000丁という量と三段撃ち戦法については史料上の問題が多く、否定する学説が大勢である。
(詳細は長篠の戦いをめぐる論点と詳細を参照)。
ただ、当時としては最大規模の鉄砲隊の投入、また騎馬隊を防ぐための馬防柵が活躍したのは事実である。
影響
この戦いによって長年の悩みであった武田家を抑えることに成功した。
織田家は勢力を拡大、特にもう一つの悩みであった石山本願寺に対する圧力をいっそう強める。
徳川家は三河を完全に掌握し二俣城、高天神城を取り返すことに成功する。
多くの優秀な将兵を失った武田家は、勝頼の下で再編成を強いられるがこれに失敗した。
さらに上杉家や北条家との外交の失敗もあった。
以後、急速に衰退して天正10年(1582年)の滅亡へ至る。
長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名した(もともとそういう約定があった)。
家康の長女・亀姫 (盛徳院)を貰い受け正室としている。
さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保障するというお墨付けを与えられた。
貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで栄えることとなる。
また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。
織田・徳川連合軍
設楽原決戦の本隊
織田軍
織田信長、織田信忠、河尻秀隆、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、水野信元、(一説には明智光秀も参戦)、野々村正成
徳川軍
徳川家康、松平信康、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠教、高木清秀、成瀬正一 (戦国武将)、日下部定好
鳶ヶ巣山攻撃隊
織田軍
金森長近
徳川軍
酒井忠次、松平康忠、松平伊忠、松平家忠、松平清宗、本多広孝、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用、設楽貞通(樋田にて待機)
長篠城籠城軍
奥平信昌、松平景忠
武田軍
設楽原決戦の本隊
武田勝頼、武田信廉、小山田信茂、武田信豊 (甲斐武田氏)、穴山信君、望月信永、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、真田昌輝、跡部勝資、土屋昌次、土屋直規、横田康景、小幡信貞、甘利信康
長篠城監視部隊
鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸)
河窪信実、三枝守友、名和宗安、飯尾助人、五味高重
有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
小山田昌行、高坂昌澄、山本勘蔵
両軍の開戦理由
武田勝頼は名立たる重臣たちの「撤退すべき」という意見を無視し、決戦に臨んだとされる。
この「撤退すべき」という意見は、圧倒的兵力差と落とせない長篠城を考えれば、当然といえる。
『甲陽軍鑑』などでは勝頼が重用した(いわゆる「君臣の奸」の)跡部勝資、長坂光堅らが決戦を進言して決定したとされる。
だが、ほぼ確実に長坂はこの戦に出陣していなかったと見られることや、史料中での3人の扱いが不当に貶められていることから信憑性は低い。
また、そもそも旧来の重臣たちが反対したということ自体が誤りでは無いかとする説もある(重臣たちが反対したという話も元は『甲陽軍鑑』からである)。
今回と状況が似ている前年の高天神城の戦いでの圧勝で自信過剰となって勝てると判断したという説がある。
また鳶ヶ巣山に酒井忠次の別働隊3000が迂回した事を武田軍は察知しており、川中島の合戦の逆説的な再来を狙ったという説などもある。
当時の情勢を見た場合、信玄時代の時点で織田家は尾張・美濃・南近江・北伊勢・山城他近畿圏にまで勢力を伸ばしていた。
単独で対抗しえる勢力は皆無であった。
そこで信玄は近畿圏において浅井長政・朝倉義景及び本願寺一向衆等の各勢力により織田家の兵力を拘束し、東方へ向ける兵力を限定させた上で三河・尾張若しくは美濃で織田と決戦するという戦略を立てていた(信長包囲網)。
後を継いだ勝頼もその基本戦略を踏襲していた。
だが、勝頼の代には有力な勢力だった浅井・朝倉が、長篠城の戦いの前年に長島一向衆が、既に滅ぼされていた。
武田家と本願寺を残すばかりとなっていた。
また、織田家の勢力の伸張は急速であり、日に日に国力差が開いていく現状を鑑みれば、どのみち早い段階で織田家と主力決戦を行い決定打を与える必要があった。
逆に信長の立場から見た場合、武田と直接戦わずとも時間が経つほど戦略的に優位に立つことになり、この時点で戦う必要は必ずしも無かった。
信長自身が出陣したことで徳川に対する義理(後詰)も果たしている(ただし、第一次高天神城の戦いで事実上見捨てており、少なくとも武田を退かせる必要はあった)。
そもそも長篠の戦いの主目的は、武田と戦いこれを倒すことではなく、長篠から武田を撤退させることである。
そのため、合戦を行っても負けさえしなければ良かった。
武田方が攻めてくる前提で陣城を築き鉄砲を大量に配置したことは理にかなっていた。
徳川家としては、今後の遠江攻略を視野に入れると、今回是非とも合戦を発生させて、強力な織田の援軍のいる時に武田を叩いておきたいという考えがあった。
(特に鳶ヶ巣山砦攻撃の発案は徳川方である)。
事実、この戦いによって長年、小競り合いを続けてきた三河を完全に掌握し、以後、攻勢に打って出ることに成功している。
両軍の兵力数と損害数
通説では織田・徳川連合軍3万8000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万5000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3000)となっているが諸説ある。
高柳光寿の『長篠之戦』では、織田1万2000~1万3000、徳川4000~5000とし、武田8000~1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000~7000という数字を唱えている。
連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5~3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。
この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。
また武田軍の損害を1万~1万2000、連合軍6000とするよりも、武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的である(後述)。
当時の武田家は100万石を若干超える程度であった。
その最大動員兵力はおよそ3万と推定されている(ただし3万の兵力を動員できるといっても、理想的な状況の場合である)。
西上作戦では3万の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。
この理由として、対上杉に戦力を割かれたことがあげられる。
(この時は対上杉に1万の抑え部隊が配置されていたと言われる)。
国人の経済状況の悪化による軍役拒否。
長篠城攻城及び徳川単独との決戦。
(1万5000と見ても可能性がある)。
これらの理由がよく言われる。
特に最後に関しては、織田との合戦を考慮していなかったという意味になる。
だが、信長が出陣した時点で既に退却か長篠城強襲かを決定する必要があるため(信長の岐阜出陣は5月13日、三河牛久保から設楽原へ向かったのが5月17日)その可能性は低いことになる。
戦死者の通説(特に武田軍の1万2000)にも不明な点が多い。
火縄銃の殺傷射程距離は60m有効射程距離は90m程度といわれている。
約8時間といわれる戦闘とその後の追撃戦の間に、両軍合わせて2万人近い死者が出たとするのは信じがたい話である。
特に武田軍を見た場合、兵力数が通説の1万5000であったとしてもその損害は異常な率になる。
(一般に部隊の半数が負傷でも壊滅的打撃である)。
また通常は同程度の負傷者がいるはずであり、結果として敗残兵の再編成でしばらくは兵を動かすことは難しくなる。
しかし、勝頼はこの数ヵ月後には兵を動かしている。
このことから、やはり1万2000という死者数は信憑性が低い。
同時代に成立した『多聞院日記』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。
そのため、武田軍の犠牲者は1000人程度だったのではないかという説がある。
(ただし「国衆」を国人級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。
また、『吉田兼見』には「数千騎討死」とある。
織田軍の鉄砲数と三段撃ち
長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3000丁を用意し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。
通説である鉄砲3000丁というのは小瀬甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。
甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされる。
資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。
これは甫庵本の3000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。
しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれている。
筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。
大田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」(約1000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1500丁)、3000丁とは書かれてない。
しかし、この「千挺計」は、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれている。
この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。
また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川幽斎や筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じている。
細川は100人、筒井は50人を供出している。
恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われる。
つまり、大田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。
当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えてみたい。
これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役32人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。
鉄砲は高価で貴重な兵器であったため、軍役として鉄砲を用意するよう義務付けられるのはある程度大身の者であることを考慮すると、この軍役率はそのまま参考にはならない。
しかし、長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って3万、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほど用意出来た可能性はある。
以上の内容を考慮して織田家が使用した鉄砲数が通説よりも少ない1000丁だったとみても、当時のことを考えれば十分に特筆すべき数ではある。
また、武田軍全軍が通説通り1万数千人と仮定する。
勝頼本隊を別にして、戦死した馬場隊・内藤隊・山県隊・真田兄弟隊・土屋隊や、撤退した穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊と分けてみる。
部隊ごとに差はあるにしても一部隊の人数は2千人に達しない。
この部隊単位で考えれば、織田軍の鉄砲が1000丁であったとしても、相対的に相当な数である。
(また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある。)
次に「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者 (映画)』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。
しかし、実在は疑問視されている。
『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はない。
最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。
それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる。
(これは大日本戦史として出版されていたので、所蔵する図書館もある)。
ただ、先述のように信長がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んだことは疑いようがない。
『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」という鉄砲の打撃力を示す、恐ろしい描写がある。
より具体的には「長篠の戦いの緒戦で、武田軍は家老山県昌景を一番手として織田陣営を攻め立てたに対し、織田軍の足軽は身を隠したままひたすら鉄砲を撃ち、誰一人前に出ることはなかった。」
「山県隊はさんざん鉄砲に撃たれてほうほうの体で退却し、次に二番手、三番手と次々と新手を繰り出すが、それもまた過半数が鉄砲の餌食になった(要約)」とされる。
ただし、両軍の兵力数と損害数に記述されるように、本当にそれだけの損害を与えられたのかは別に疑問が残る。
とはいえ、死なずとも負傷兵となれば、これを引かせる必要があり、負傷した人間と後送させる少なくとも1名、つまり2人以上を前線から遠ざけることになる。
(この考え方は現代でも行われている)。
具体的な運用法は不明である。
だが鉄砲隊をある程度集中した部隊として機能させていれば、1度の射撃で部隊単位の戦力を大きく消耗させる事は不可能ではない。
結果的に三段撃ちが無くても、武田軍を消耗させる事は難しくないといえる。
武田軍が大敗した理由
武田軍が大敗した理由としては、通説では武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できなかったことがあげられる。
また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させた。
著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。
しかし、織田軍の鉄砲数と三段撃ちに記述されるように三段撃ちは実在が疑わしい。
また、武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい。
(火縄銃の有効射程は50~100メートル)。
『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。
鉄砲による損害に関しては「三段撃ちこそ無かったものの、1000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないか」とする説がある(井沢元彦ほか)。
過去に織田軍も雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃主を秘匿するために行った囮の空砲の速射で大混乱に陥ったことがある。
当時の軍隊には鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。
逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はない。
過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた面は否定できない。
また、当時として異例の野戦築城は、それ自体が重要な史実であると同時に、当然武田軍にとって初めての経験である。
従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。
他に大敗の理由としては武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。
数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だった。
これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例がある。
有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。
これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術である。
両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。
まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえる。
左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していた。
にも関わらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮、叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君、武田信豊 (甲斐武田氏))の早期退却によって中央部の戦線が崩壊した。
両翼の部隊での損害が増大した。
(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。
現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)である。
中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多い。
戦死したのは近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。
(鳶ヶ巣山攻防戦から出た御親類衆の戦死者も叔父の河窪信実だけ)。
また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然である。
実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。
間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃により退路を脅かされたため、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫された。
このことも大敗の重要な要因と考えられる。
また、5月 (旧暦)という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられている。
(特に信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだった。)
(晴れたのは珍しいことであった)。
このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる。
武田騎馬軍団の存在
この戦いに限った話ではないが、有名な「武田の騎馬隊」の実在には様々な異論がある。
甲斐の黒駒伝承に象徴されるように甲斐国は古来から馬産地として知られる。
武田の騎馬隊に一定の信憑性を与えている。
だが、実質的には騎馬武者に率いられたその従者(武家奉公人)及び徴集された農兵による歩兵部隊であった(これは当時の一般的な軍制である)。
軍制上の最小単位は寄子であり、即ち寄子(騎馬武者)+郎党(武家奉公人)が基本的に最小運用単位となる。
これは論功行賞にも関わることであり、これを分離することは難しい。
つまり、軍制上から単独兵科としての騎馬隊の編成は難しい。
騎兵のみで部隊を構成したという事実は一部を除いてない(塩尻峠の戦いなど)。
また、『甲陽軍鑑』にある各部将に付属される騎馬武者数を見ても主力と呼べるほどではない(ただし、甲陽軍鑑は余り信用できないとする意見もある)。
元亀2年の河窪信実に宛てた軍役定書でも騎馬3、鉄砲5、持鑓5、長刀5、長柄10、弓2、旗3となっている。
つまり、騎馬率はおよそ1割である。
上杉氏の軍役帳、北条氏家臣の軍役をみても大体似たような割合である。
むしろ若干北条氏の騎馬率が高いくらいである。
(騎馬隊日本の騎馬隊も参照)
異論の中で有名な説に馬格を問題にするものがある。
山梨県内では戦国以前からの馬の全身骨格が出土している。
現在のサラブレッドなど(体高約170センチ)に比べれば、甲斐の在来馬をはじめ当時の馬は小型であったと考えられている。
1579年に常陸の多賀谷重経から織田信長に献上された名馬の体高は四尺八寸(145センチ)である。
現在の木曽馬とほぼ同じ大きさであり、現在でいうポニー級といえる。
ただし、当時の大陸産の蒙古馬などもほぼ同程度の大きさであり、決して体格に問題があったとはいえない。
よくポニーといわれて想像されるシェトランドポニー(体高100センチ)とは全く異種のものである。
現在の馬格を問題にする論者にはポニーという名称のイメージが一人歩きしている感がある。
関連して武田軍には騎馬の最大の特徴である機動力を生かした作戦がほとんど見受けられない。
やはり日本の戦国時代における騎馬隊は全員騎乗で戦う遊牧民族や近代兵科の騎兵とは異なるものと考える必要がある。
色々な説があるものの、この戦いでは馬防柵を構築していた。
また、直前の5月18日付けで徳川家康より家臣宛に「柵等よく念を入れて構築するように。(武田方は)馬一筋に突入してくるぞ」という趣旨の命令書を発している。
(実態はともかく)連合軍が武田の騎馬隊を注意深く警戒していたのは事実である。