門葉 (Monyo (blood line, lineage, connected by blood))
門葉(もんよう)とは、一般的に血縁関係がある一族を指す。
後に、擬似的な血縁関係で編成された家臣団での格式を指す名称としても使用されることもある。
御門葉
御門葉とは清和源氏の一門のうち鎌倉幕府において鎌倉殿の一門としての処遇を受けた者をいう。
源頼朝から源実朝までの三代の源氏将軍の時代、鎌倉殿と同族の源氏一門は狭義には河内源氏、広義には清和源氏に広く存在したが、鎌倉殿への忠勤の姿勢を重んじ、同族に対す甘えを許さず、すべての源氏一門が鎌倉殿の親族として処遇されたわけではなかった。
多くの源氏一門は叙位任官を除き、特に無碍に鎌倉殿と同様に源姓を称することを禁じられ、あくまで家人として遇された。
源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てると、頼朝は清和源氏一族内で、特に功績を認めた者だけに源姓を名乗ることを許可し、他の源氏一族が公式の場で源姓を名乗ることを禁じた。
文治元年(1185年)8月16日(旧暦)の除目で国司に任ぜられた6名が始まり。
これを認められた家は御門葉と呼ばれ、格式では将軍家に次ぐ扱いを受け、他の御家人と一線を画した。
その為、御門葉と認められることは大変な名誉と見なされた。
ちなみに、最初に認められた6人は、頼朝と源義経の仲が険悪化する以前に推挙されていた。
そして、除目が発表された時には頼朝と義経の仲は険悪化しており、義経は事実上御門葉とは認めなかった。
この門葉の顔ぶれを見る限り、門葉たる地位を付与されるためには、血筋上の嫡流庶流や頼朝の血筋との近接性はあまり問題ではなく、あくまで忠勤の目覚ましい清和源氏であることがその要件であったということができる。
実弟である源範頼、阿野全成そして義経らはこれに含まれず、頼朝と比較的血筋の近い河内源氏のうちでも新田氏の庶子 山名義範や足利義兼に限られ、逆に、頼朝の4代前の祖先 源義家の弟 源義光を祖先とする甲斐源氏の加賀美遠光、安田義資、また6代前の祖先 河内源氏の祖 源頼信の兄 源頼光を祖先とする摂津源氏の源有綱など限りなく遠縁の者が門葉に列していることが確認できる。