開国 (Opening of a country to the outside world)
開国(かいこく)とは、鎖国の反対で外国と交際・貿易をすること。
中国の開国
明王朝(1368年 - 1644年)は海禁を行い、倭寇などによる密貿易が行われた。
清朝(1616年 - 1912年)も台湾の鄭成功勢力などに対抗するために海禁政策を行ったが、清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。
特に台湾平定後は伝統的なポルトガル租借地マカオ以外に広州市も開港し、外国商船の来航も認めた。
このため18世紀には広州に欧米諸国の商館が設置され、広東貿易が行われた。
アヘン戦争(1840年 - 1842年)の敗北により結ばれた南京条約の締結(1842年)に続き、アロー号戦争(1857年 - 1860年)、清仏戦争(1884年 - 1885年)、日清戦争(1894年 - 1895年)、義和団の乱(19世紀末 - 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになる。
イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。
上海市に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていく。
フランス租界の公園(現黄浦江沿いにある公園)に「犬と中国人入るべからず」という札が掲げられたのは、世界史における有名な逸話である。
日本の開国
日本は江戸時代に200年以上に渡って鎖国を続けており、対外的な窓は長崎の出島に限られ、日本人の海外渡航や大船建造の禁止など統制が行われていた。
18世紀には、主にロシア、イギリス、フランスなど帝国主義時代の欧米列強が日本へも接近し、日本人漂流民の返還のために蝦夷地へ来日したアダム・ラクスマンの来航(寛政4年(1792年))といった諸外国が通商を求める出来事や、1811年(文化8)のゴローニン事件といった摩擦・紛争が起こり始めた。
幕府は1791年には寛政令、1806年には文化令がそれぞれ出され、来航した外国船に対して必要な物資を提供する政策が行われていた。
25年には一転して強硬な異国船打払令(文政令)が出され、文化5年(1808年)にはイギリス船が長崎へ上陸して食料を奪うフェートン号事件が起こり、1837年には浦賀に侵入したアメリカ商船に大砲が打たれるモリソン号事件が起こる。
幕府の対外情報源は、出島において貿易を許可されていた中国(清)とオランダの「風説書」が主であった。
アヘン戦争で中国の清が敗北したことが伝わる(1842年)と、老中の水野忠邦は1842年に令を緩和する(天保の薪水令)。
44年にはオランダのヴィレム2世 (オランダ王)が開国を勧める親書を送る。
アメリカ合衆国は石炭補給基地の確保や、日本沿岸で漂流した自国民やその財産の保護、日本との自由貿易などの理由で日本との通商を試みていた。
1846年(弘化3)、東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビッドルを派遣して国交を求めたが、江戸幕府はこれを拒絶し、46年の米墨戦争の勃発のため帰国する。
49年3月には漂流民ラナルド・マクドナルドの返還を求めるプレブル号が来航し、長崎奉行の仲介で解決する。
この頃には「風説書」により、アメリカより通商を求める使節が来航する情報が幕府に伝わっている。
嘉永6年(1853年)6月、アメリカは再び東インド艦隊司令長官に任命されたマシュー・ペリーを派遣する。
ペリーは共和党 (アメリカ)のミラード・フィルモア大統領から海軍の作戦行動として日本との条約締結を命じられるが、アメリカでは交戦権が上院に属するため、発砲は禁止されていた。
ペリーは蒸気船を配備した東インド艦隊を引きいて、53年7月に浦賀沖に来航し、7月14日に久里浜に設置された開国を求めるアメリカ大統領国書を提出し、9日後に帰国。
7月にはロシアのプチャーチン艦隊が長崎へ来航。
江戸幕府では老中阿部正弘らを中心に、7月31日に国書を開封、諸大名から庶民まで幅広く意見を求めた。
先例を破って朝廷に事態を報告、対策を協議して日米和親条約を結び、下田港と函館港を開港し、9月には大船建造の禁を緩和、10月には海外渡航が解禁される。
さらにオランダ商館に蒸気船を発注し、60年には勝海舟ら咸臨丸を派遣する。
1854年1月、琉球や小笠原諸島などを回航していたペリーが国書の返答を求めるため、再び浦賀へ来航。
3月に日米和親条約が、8月には日英和親条約が、12月には日露和親条約がそれぞれ締結される。
安政3年(1856年)7月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスが修好通商条約締結のため来日し、57年10月には江戸城へ登城。
老中堀田正睦はこれを京都の朝廷に上奏したが勅許を得られず、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題とも関係して南紀派、一橋派の抗争となる。
58年に大老に就任した井伊直弼は、日米修好通商条約を締結、紀伊国藩主徳川家茂を14代将軍にした。
(→安政の大獄、桜田門外の変参照)
59年には箱館、横浜港、長崎港、新潟港、神戸港の5港を開港し(下田を閉鎖)、江戸や大阪などの市場が開放されて貿易が開始され、貿易相手国は主にイギリスであった。
日本からは生糸や茶などが輸出され、毛織物、綿織物や艦船や武器などが輸入された。
日米修好通商条約は「治外法権」、関税自主権の放棄(協定関税率制)、片務的最恵国待遇など、日本にとって不利な内容を含む不平等条約であり、無防備なままの日本市場が世界市場に対して開かれると、入過により国内産業への影響、金の流出が物価高騰、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等を招いた。
幕府は物価高騰と流通の混乱を防ぐため、60年に五品江戸廻送令を発して貿易の統制を図ろうとするが失敗する。
条約港となった横浜、神戸、長崎などでは外国人居留地(実質的な租界)も設置された。
明治政府の外交政策にとって、この是正は重要な課題のひとつとなるが、逆に一部の国粋主義者からは居留地の存在が外国の思想や宗教から日本の伝統・文化を守る防壁になっているという見地からの存続論も登場して複雑な論争を招くことになった(内地雑居)。
同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結ばれた(安政五ヶ国条約)。
江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩などの攘夷派を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになる。
日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を持つこととなる。
朝鮮の開国
李氏朝鮮(1392年 - 1910年)末期の1832年イギリスが通商を求めに現れ、1840年頃からヨーロッパ船が近海に頻繁に出没するようになった。
19世紀頃朝鮮では勢道政治(王の外戚による政治)が行われていた。
1863年から李朝第26代高宗 (朝鮮王)(在位1863年 - 1907年)の父で摂政の興宣大院君による政権時代、迫り来る帝国主義列強を排除する政策をとっていた。
1866年ジェネラル・シャーマン号事件(対アメリカ合衆国)、丙寅洋擾(対フランス)、1868年日本(明治政府)からの国書(明治政府の樹立宣言、王政復古の通告)の受け取りを拒否する、1871年辛未洋擾(対アメリカ)、など、海禁政策をとった(鎖国攘夷策)。
1873年朝鮮政府の実権は閔妃(1851年 - 1895年、高宗の妃)一族に移った。
こうした中で1875年江華島事件(雲楊号事件)が起こる。
日本政府が示威で江華島沖に送った軍艦雲揚 (軍艦)から出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件である。
雲揚が許可なく朝鮮の領海を侵犯したので、これを排除しようとしたものである。
しかし日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876年江華島条約(日朝修好条規)が結ばれる。
釜山広域市・元山市・仁川広域市の3港を開港、ソウル特別市に日本公使館を開設した。
これは中国がイギリスと結んだ南京条約(1842年)、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約(1858年)と同様、治外法権の認定など、結ばされた側にとっての不平等条約であった。
続いて1882年に米朝修好通商条約を締結し、さらにイギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約を結んだ。
これによって朝鮮は、帝国主義が渦巻く世界へ開国していくことになった。
一方、江華島条約の第1条には「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を有する」とあり、朝鮮は従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こっていく。
華夷秩序:中国を中心とした東アジアにおける秩序。
冊封体制。
東アジア(朝鮮・日本を含む中国の周囲の諸国)では近代の開国前後、万国公法という概念との葛藤を経験することになる。