陰陽博士 (Onmyo hakase (Doctor of onmyo))
陰陽博士(おんみょうはかせ)は、律令制で陰陽寮に設置された教官の1つ。
陰陽師を教育することを掌った。
定員1名(ただし実数には異説あり)。
正七位下相当。
『日本書紀』持統天皇6年(692年)の条が初出。
ただし、定員については、実際には定員が複数だったとする見方もある。
それは『続日本紀』養老5年(721年)に大津首・津守通の両名が陰陽博士として登場しているためである。
陰陽生10名を教育するのが役目であった。
だが、天平2年(730年)に陰陽寮強化の一環としてうち3名を陰陽得業生として給費する。
更にそこから後任の陰陽師・陰陽博士が選ばれた。
後には博士に対して職田4町が与えられた。
教科書としては、子部五行類の『新撰陰陽書』・『黄帝金匱経』・『五行大義』・『周易』・『難儀』などが用いられた。
奈良時代から平安時代初期にかけては、大津氏・弓削氏・滋岳氏などが、世業としていた。
平安中期には惟宗氏・阿倍氏・賀茂氏などが世業としていた。
平安後期以後は安倍氏と賀茂氏による世襲となった。