与謝野晶子 (YOSANO Akiko)
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字体:與謝野晶子、明治11年(1878年)12月7日 - 昭和17年(1942年)5月29日)は明治時代から昭和時代にかけて活躍した歌人、作家、思想家。
大阪府堺市(現在の堺区)出身。
旧姓は鳳(ほう)。
戸籍は「志よう」。
ペンネームの「晶子」の「晶」はこの「しよう」から取った。
夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
経歴
鳳志ようは、大阪府堺市甲斐町(現在の堺区甲斐町)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。
実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。
堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。
また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)『文学界』や尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』明治39年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。
浪華青年文学会に参加の後、明治33年(1900年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と親しくなり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。
のちに鉄幹と結婚。
明治37年(1904年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
明治44年(1911年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。
明治45年(1912年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行くことになった。
洋行費の工面は、森鴎外幅の広い文芸活動と交際が手助けをし、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。
同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。
翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた。
5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4ケ月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。
また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。
子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。
多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。
『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
墓は多磨霊園にある。
作家・歌人
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』明治34年(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。
『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。
伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。
所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
明治37年(1904年)9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。
晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難した。
さらに「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。
(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。)
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難した。
夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。
この後、大正14年(1911年)6月11日、桂月は57歳で病没するが『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、明治43年(1910年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。
満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、昭和17年(1942年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。
例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。
このようなことから、反戦としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向であると評する者もいる。
日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言した。
ただし、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を明治44年(1911年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。
刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった菅野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいる。
晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している。
明治44年に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。
同年、文部省と内務省 (日本)が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「小松原英太郎 平田東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。
文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。
大正4年(1915年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。
また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。
この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。
晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鴎外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。
そのため、一からやり直し、源氏五十四帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。
またも一からやり直し、さらに十七年かけて六巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。
昭和13年(1938年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。
評論家
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。
評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。
教育問題なども評論している。
女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。
英米思想的な個人主義である。
反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化した。
これに対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。
ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。
文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した(現代でも問題になっているアグネス論争も類似した論争である)。
政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。
その論文の数は、20本を越える。
『君死にたまふことなかれ』を前面に出して一概に反戦・反天皇の人物であったわけではなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。
シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。
また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内正毅内閣の退陣を要求している。
晶子は『中央公論』大正8年(1919年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。
各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案している。
今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。
他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育や社会教育の場を作るよう提言している。
羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力、文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。
のち文化学院女学部長。
自著
『定本 与謝野晶子全集』全20巻(講談社、1979年 - 1981年刊)
『みだれ髪』(新潮文庫)
『みだれ髪 附みだれ髪拾遺』(角川文庫クラシックス)
『全訳源氏物語』上・中・下(角川文庫クラシックス)・大活字版『ザ・源氏物語』全文対訳(第三書館)
『梗概源氏物語』(武蔵野書院)鶴見大学文学部、池田利夫 編
『蜻蛉日記』(平凡社ライブラリー)与謝野晶子 訳
『与謝野晶子歌集』(岩波文庫)
『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)
『愛、理性及び勇気』(講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ)
『女人創造 叢書 女性論』(大空社)
『与謝野寛晶子書簡集成』(八木書店)
『私の生ひ立ち』(女性文庫/学陽書房)竹久夢二 挿絵/(刊行社)
『童話 環の一年間』(和泉書院)
児童・子ども向け
『きんぎょのおつかい』(架空社)高部晴市、与謝野晶子 著
『与謝野晶子 女性の自由を歌った情熱の歌人』(学習まんが人物館/小学館)入江春行、あべさより 著
その他
与謝野という姓は、京都府北部の与謝野町に由来する。
華の乱(1988年、東映京都製作所、深作欣二監督)は与謝野晶子の生涯を描く。
吉永小百合が晶子を演じている。
1998年5月に生誕120周年を記念して堺市の南海本線堺駅西口に銅像が建てられた。
通産相や金融経済財政担当相、自民党政調会長などを務めた衆議院議員・与謝野馨(2007年安倍改造内閣時の内閣官房長官)は晶子の孫にあたる。
馨が幼い頃に晶子が死去したが、初めて衆議院議員選挙に立候補して落選し、浪人生活を送っているときに、祖母の詩集『みだれ髪』を復刻させている。
与謝野晶子の作品をモチーフに、2006年8月、京都八幡市で開催された「全国高校総合文化祭演劇部門」において、第二次大戦の時代の波に翻弄される漫才師姉弟を描いた「君死にたまふことなかれ」が上演されたことがある。