佐竹本三十六歌仙絵巻 (Satake version of Sanju-roku Kasen Emaki (hand scrolls of the thirty-six immortal poets))
佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)は、鎌倉時代・13世紀に制作された絵巻物。
鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する作品である。
元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていた。
1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。
概要
藤原公任(966 – 1041)は11世紀初め頃に私撰集「三十六人撰」を撰した。
これは、『万葉集』の時代から、平安時代中期までの歌人36名の秀歌を集めて歌合形式としたもので、これら36名を後に「三十六歌仙」と称するようになった。
本絵巻はこの三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。
上巻・下巻ともに18名の歌人を収録する。
下巻巻頭には和歌の神とされる住吉明神(住吉大社)の景観が描かれた図があり、上巻巻頭にも、現在は失われているが、玉津姫明神または賀茂御祖神社の景観図があったものと推定されている。
技法・寸法
紙本著色。
元は巻子装で上下2巻からなっていたが、上述のように1919年、上巻は18枚、下巻は19枚に分割され、計37幅の掛幅装に改装されている。
寸法は縦が約36センチメートル、横は各幅によって差があり一定しないが、60 - 80センチメートル前後である。
画風・作者・年代
各画面は、まず歌仙の位署(氏名と官位)を記した後、略歴を数行にわたって記し、代表歌1首を2行書きにする。
それに続いて紙面の左方に歌仙の肖像を描く。
上巻・下巻の構成はそれぞれ次のとおりである。
上巻 - 人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
下巻 - (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務
古来、絵の筆者は藤原信実(1176 - 1265)、文字の筆者は九条良経(1169 - 1206)と伝承するが、確証はない。
絵の筆者は数人の手に分かれており、信実筆の可能性が高い後鳥羽天皇像(水無瀬神宮蔵、国宝)よりは様式的に時代が下るものと思われる。
また、文字は13世紀前半の作である承久本『北野天神縁起絵巻』(国宝)の第3巻1・2段の詞書の書風に近いことが指摘されている。
以上の画風・書風の検討、また男性歌人像の装束の胸部や両袖部の張りの強さを強調した描き方などから、佐竹本の制作年代は鎌倉時代中期、13世紀と推定されている。
なお、佐竹本の位署・略歴等の文字には誤字脱字の多いことが指摘されている。
描かれている歌人たちは、『万葉集』の時代から、下っても10世紀頃までの人物であり、当然ながら、現実のモデルを前に制作された肖像ではなく理想化された肖像である。
画面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則である。
ただし、中で身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表している。
36名の歌人の男女別内訳は女性5名、男性31名である。
女性歌人は上記の斎宮女御のほか、小大君、小野小町、中務、伊勢で、小大君、小野小町、中務は唐衣に裳の正装であるが、伊勢は唐衣を略す。
女性歌人のうち、斎宮女御は慎み深く袖で顔を隠している。
また、絶世の美女とされた小野小町は顔貌が見えないように後向きに描かれ、容姿については鑑賞者の想像にゆだねる形となっている。
男性歌人像は束帯姿18、直衣(のうし)姿7、狩衣(かりぎぬ)姿2、褐衣(かちえ)姿2、僧侶2となっている。
男性像では藤原興風、藤原朝忠は後向きの体勢で描かれ、藤原仲文は脚を立膝とするなど、単調になりがちな画面に変化をつけている。
なお、凡河内躬恒の図は当初のものが失われ、江戸時代・狩野探幽筆のものに代わっている。
紀貫之の文字の部分も後補である。
三十六歌仙は、近世に至るまで画帖、額絵などさまざまな形で絵画化され、遺品も多い。
佐竹本三十六歌仙絵巻は、上畳本三十六歌仙絵巻と並んで三十六歌仙図のうちでも最古の遺品であり、鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品と評されている。
伝来
旧秋田藩主・佐竹侯爵家に伝来したことから「佐竹本」と呼ばれる。
大坂在住の文人・木村兼葭堂(1736 - 1802年)の『蒹葭堂雑録』によると、元は下鴨神社に伝来したものである。
絵巻の分割と所有者の変転
この絵巻は前述のとおり、佐竹侯爵家に伝来したものである。
1917年(大正6年)、東京両国の東京美術倶楽部で佐竹家の所蔵品の売立てが行われ、三十六歌仙絵巻は東京と関西の古美術業者9店が合同で35万円3千円で落札した。
単純には比較できないが、当時の1万円は21世紀初頭現在の約1億円に相当するとされる。
あまりの高額のため、業者1社では落札できなかったものである。
同年、この絵巻を購入したのは実業家の山本唯三郎(1873 - 1927年)であった。
山本は松昌洋行という貿易商社を起こし、中国で材木の輸出、石炭の輸入などの事業を行い、後に海運業で財を成した人物である。
朝鮮半島へ虎狩りに行ったことから「虎大尽」の異名を取り、数々の武勇談や奇行に満ちた人物であった。
第一次大戦の終戦による経済状況の悪化に伴い、山本は早くも1919年にはこの絵巻を手放さざるをえなくなった。
ところが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもいなかった。
この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号鈍翁)のところへ相談に行った。
大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなった。
益田は実業家で茶人の高橋義雄(号箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役とした。
三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとした。
抽選会は1919年12月20日、東京の御殿山(現・品川区北品川)にあった益田の自邸で行われた。
この抽選会が行われた建物は「応挙館」と呼ばれ、後に東京国立博物館の構内に移築されて現存している。
抽選会には益田自身も参加し、また、旧所蔵者の山本唯三郎にも1枚が譲渡されることになった。
益田は、三十六歌仙の中でも最も人気が高く、最高値の4万円が付けられていた「斎宮女御」の入手をねらっていた。
通説では、くじ引きの結果、益田にはもっとも人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまった。
それで、「斎宮女御」のくじを引き当てた人物が「自分の引き当てた絵と交換しましょう」と益田に提案し、益田は「斎宮女御」を入手して満足そうであったという。
もっとも、翌12月21日付け「東京朝日新聞」でこの絵巻売却の件が報道されたのを見ると、益田が最初に引き当てたのは僧侶像ではなく「源順像」だったことになっており、細かい点についての真相は不明である。
これら37分割された歌仙像は、その後も社会経済状況の変化、第二次大戦終了後の社会の混乱等により、次々と所有者が変わり、公立・私立の博物館・美術館の所蔵となっているものも多い。
1984年11月3日、NHKテレビで、三十六歌仙絵巻の分割とその後の流転をテーマにしたドキュメンタリー番組「絵巻切断」が放送され、関連書籍が発行されたことにより、この件はさらなる注目を集めることとなった。
1986年には当時、東京・赤坂にあったサントリー美術館で「開館25周年記念展 三十六歌仙絵」が開催され、佐竹本三十六歌仙絵37点のうち、20点が出品された。
佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の一覧
1919年当時の所有者については、参考文献に挙げた『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』による。