吾妻鏡 (Azuma Kagami)
『吾妻鏡』(あづまかがみ)とは、日本の中世・鎌倉時代に成立した歴史書。
現在一般的な北条本では全52巻。
ただし第45巻は欠落し、それ以外にも記事の無い年がある。
年を間違えて編集している処、また北条得宗家の正当化の為の曲筆など注意が必要なものの、鎌倉時代を研究する上での前提となる基本史料である。
編纂された当時になんと呼ばれていたのかは不明であるが、金沢文庫に残る書状に「鎌倉治記」と出てくるのがそれではないかとの説もある。
少なくとも室町時代の写本には『吾妻鏡』とある。
『東鑑』とも呼ばれるが、これは江戸時代の古活字版の表紙からである。
概要
1180年(治承4年)4月9日東国の武士に挙兵を以仁王の令旨が出され、それが源頼朝の居る伊豆の北条館に届くところから始まる。
そしてその後の治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立、承久の乱を経て13世紀半ば、鎌倉を追われた前将軍宗尊親王が京都に到着する1266年(文永3年)7月20日の条までの87年間を、武家政権や社会の動きを鎌倉幕府将軍の年代記というスタイルで、貴族の日記と同じように和風漢文で記述されている。
後に述べる北条本をベースとすれば、全52巻の内15巻までが頼朝を主人公とし、24巻までが源氏三代。
残り約半分強の主人公は北条得宗家である。
また源氏三代については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもある。
最悪なのは源頼家将軍記である。
そして後半の北条得宗家についてはその善政が高らかに強調される。
特に北条泰時にそれが著しい。
範囲としては当初から宗尊親王までの予定であった可能性が高い。
ただし吾妻鏡の編纂自体はおそらく未完であったと考えられている。
吾妻鏡の研究史
『吾妻鏡』を重要な歴史史料として最初に評価したのは1889年(明治22年)に『吾妻鏡考』を発表した歴史学者の星野恒である。
しかしその態度は無批判にそれを受け入れる傾向が強く見られた。
それから9年後の1898年(明治31年)に、原勝郎 (歴史家)は、『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調して、安易に盲信することへの警鐘を鳴らした。
明治末期から大正時代にかけて、現在の東京大学史料編纂所、当時の帝国大学史料編纂掛の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった吉川本その他の諸本を紹介した。
二人は、原勝郎の問題提起、史料批判をさらに押し進め、それが当初思われていたような逐次記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所の残る記録のみならず、京の鎌倉幕府の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆があることを明らかにする。
八代国治が1913年(大正2年)に著した『吾妻鏡の研究』はその後長い間『吾妻鏡』研究のベースとなった。
近年では1990年から2000年までの五味文彦の研究があり、八代国治の分析を更に進める形で、『吾妻鏡』のベースとなった日記、筆録がどの時代の誰であったかの推論を行う。
こうして『吾妻鏡』の全体像は徐々に見え始めてきた。
吾妻鏡の原資料
吾妻鏡の原資料についての際だった研究を行ったのは、八代国治と五味文彦である。
五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型が浮かび上がるとするが、ここでは説明の都合上、4つ目を追加しておく。
ベースとなる原史料として当時の幕府事務官僚の日記、筆録
地頭・御家人、寺社などから多くは訴訟の証拠、由緒として提出された文章や、求めに応じて提供された文章
政所や問注所に特別な形で保管されていた文章、あるいは事務官僚の家に伝わった公文書類もあると思われる。
京系の記録、主に盗作として指摘されるものである。
基本的には上記の1.から3.がベースとなるが、部分的には 4.の京の貴族の日記、代表的には藤原定家の『明月記』などから、京での事件などか丸写しされたりもしている。
幕府事務官僚の日記、筆録
まず1番目のベースとなる原史料の部分をまずは合戦記、それから各将軍記毎に、その特徴も織り交ぜながら、それぞれのベースとなる筆録が誰であったかを見ていく。
・合戦記
『吾妻鏡』の中で一般にもっとも多く参照されるのはちょうど『平家物語』などとかぶる部分、そして奥州合戦、和田合戦、承久の乱、宝治合戦であろう。
合戦の描写そのものは実に臨場感があり、リアルである。
合戦に致る過程についてはともかく、合戦そのものについては、当時の軍奉行がまとめた論功行賞のための合戦記、勲功次第注文などの記録が元になっていると思われる。
このうち奥州合戦、和田合戦、承久の乱については、ほぼその軍奉行が推定出来る。
奥州合戦記は二階堂行政、和田合戦記はその二階堂行政の子二階堂行村、承久合戦記は後藤基綱と思われている。
宝治合戦記はわからない。
・頼朝将軍記
ベースとなる原史料の種類・著者を推定することの最も困難な時期が、ちょうど源平合戦の時代1180年から1184年頃である。
この時期は非常に物語性が強く読み物としても面白い。
つまりその分、元資料の姿が現れ難い部分である。
言えることといえば、日記形式ではあっても絶対に日記ではないというぐらいである。
またこれは第2の分類になるが、頼朝将軍記の時代全般に渡って、いくつかの御家人の家に伝わる文書や家伝書のようなものが利用されたと思われる。
挙兵当時から右筆として居たのは藤原邦通だが、1184年頃から藤原俊兼、二階堂行政、大江広元、三善康信らの京史、つまり朝廷に仕えていた中・下級実務官僚が鎌倉に下り、後に政所となる公文所や問注所の担い手となる。
それ以降の将軍頼朝の時代については、藤原俊兼も頼朝の右筆として沢山出てくるが、この時期の『吾妻鏡』のベースとしては、二階堂行政の筆録が有力とされる。
・頼家・実朝将軍記
二階堂行政の子で初めて政所執事となった政所奉行人二階堂行光の筆録をベースに、三善康信や、和田合戦で軍奉行であった前述の二階堂行村の記録などにより補ったと思われる。
ただしこの頼家・源実朝将軍記の時期は北条氏を正当化する曲筆が非常に多い。
従って、二階堂行光の筆録が一般的にはベースであったとしても、頼家・実朝と北条氏の関係に関する部分では相当の加筆・修整がなされていると考えられている。
・藤原頼経・頼嗣将軍記
読み物としてもとても面白かった源氏三代将軍記と比べて、その文章の流暢さは大きく異なる。
また儀式に関する記事、天変、地異、祭礼、祈寿に関する記事が多くなる。
八代国治はそれを評して「叙事は平凡にして、文章も流暢ならず、日記を読むが如く無味乾燥にして興味少なし」という。
原勝郎は、建暦前後より延応の前後まで(1210~1240年前後)、俗にいう尼将軍の時代から将軍藤原頼経の代、執権はほぼ北条泰時の時代について諸家の筆録をベースに一人が編纂したように見受けられるとした。
また、源氏三代将軍記に比べれば信用するに足るとする。
そして延応前後より終りまで、つまりほぼ藤原頼嗣将軍記から次の宗尊親王将軍記にあたる1240年から1266年については、筆録そのままだろうとする。
現在までの研究ではそれは否定されるが、しかしそれは後世の編纂の有無に関してであり、原史料が比較的に生の形で残っているということについてまさしくその通りといえる。
では誰の筆録がベースとなったのかについては、五味文彦は恩賞奉行(恩沢奉行)の中原師員。同じく恩賞奉行で前述の承久合戦軍奉行であった後藤基綱の筆録が中心とする。
それを補うものとして藤原定員や、得宗家被官平盛綱 (三郎兵衛尉)の記録も考えられる。
・宗尊親王将軍記
八代国治や原勝郎が指摘した文章・内容の「つまらなさ」が極まったのがこの時期である。
しかし事実の記録としては逆に信頼度は高いといえる。
但しあくまで書いてある内容についてであり、当時の政治情勢が正直に全て書かれていると言うことではない。
五味文彦は、この部分は御所奉行の筆録が中心で、1263年(弘長3年)7月5日まで二階堂行方、その後はその御所奉行を引き継いだ中原師連の記録と推定している。
後に提出された文書
2番目は地頭御家人、寺社などから、訴訟の証拠、由緒として提出されたと思われる文書である。
文中では「今日こういう下文が下された」という形で地の文の中に織り込まれているものや、引用・転載のような生の形で記されていることもある。
しかし全てとは言わないが、それらの中には明らかに偽文書と思われるものが混じっている。
そのことから、幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、相論と呼んだ訴訟の証拠として後世に提出された書類から採録したものであろうと推測される。
当時の裁判は、下文、御書などの証拠書類も、関連法令までも、全て訴訟人が揃えて訴えを起こた。
裁判官は提出された書類の形式などから真偽を判断し、その書類の情報の中で判決を下すというものであった。
何月何日にこういうお達しがあったと『吾妻鏡』に書いてあっても、その書類はその日から幕府の役所に保管されたものではない場合が殆どと推定される。
そればかりかそれは書かれている日付のその日に書かれたものでない、つまり後世の偽文書であることもままある。
実はこうした偽文書の分析から『吾妻鏡』の編纂時期が明らかになってゆく。
また、頼朝の下文についても下河辺行平、下河辺政義が絡むものが多数あり、頼朝に感心されたとか褒められたという顕彰記事が、下河辺行平、その他千葉氏、三浦氏の佐原義連など沢山出てくる。
その子孫が家に伝わる文書を資料として提出した可能性が高い。
特に『尊卑分脈』の系図に下河辺行平の実子とある斎藤時員の元服が『吾妻鏡』1193年(建久4年)10月10日条に見えることもあり、この斎藤時員(野本時員)の子孫からその家伝・由来が『吾妻鏡』の編纂者の下に提出された可能性もあるという。
政所や問注所、事務官僚の家に残る公文書類
3番目は公文書類であるが、2番目の上記「御家人などから提出された文書」同様に、地の文の中に織り込まれていることもある。
また、それが政所などの役所に保管されていたものもあれば、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が政所執事や問注所の執事などに伝えられたその文書が、その政所や問注所の執事の家に伝えられて、『吾妻鏡』の編纂時に収録、あるいは原史料として利用されたと思われる。
『吾妻鏡』1254年(建長6年)5月1日条の「人質の事(人間を質入すること)沙汰有り。・・・凡そ御制以後質人の事は、一向停止すべきの由と。此の如く申し沙汰すべきの旨、相州より問注所に仰せらると。勧湛・實綱・寂阿奉行たり」などはその例である。
この幕府追加法299の本文が『中世法制史料集』で知られるが、そちらでは宛先に大田民部大夫殿とあり、このとき問注所の執事であった三善康連のことであり、三善氏(大田氏)に伝えられたのだろう。
京系の記録
4番目であるが、治承・寿永の乱については、鎌倉が直接関与する部分と、そうでない部分では情報の正確さには相当の開きがある。
特に源義仲の北陸での動向などは、当時の鎌倉には断片的に、かつ相当遅れてしか情報は伝わらず、ほとんどの部分については、かなり後の京都近辺からの資料により補っていると見られる。
例えば『吾妻鏡』の1181年(養和元年)8月13日条の記述には木曽義仲追討の宣旨が出されたとある。
『吾妻鏡』と同じく後年の編纂である『百錬抄』にも、このときに「義仲追討の宣旨が出された」との記載がある。
しかし同じ事件について当時書かれた公家の日記、例えば『玉葉』1181年(養和元年)8月6日条には木曽義仲の名は無い。
また、『吉記』8月15日条、翌8月16日条にもない。
実はこの段階では平家側には義仲追討の意識はなく、意識していたのは甲斐源氏である。
木曽義仲など名前すら知らなかった可能性がある。
京の公家の日記に初めて義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』1183年(寿永2年)5月16日条が初見である。
後世の編纂である『百錬抄』や『吾妻鏡』は、その後木曾義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曾義仲の進路を塞ぐ為との刷り込みがあり、そのための編者の誤解であろうと上杉和彦は指摘している。
今から見れば、平家に立ち向かったのは源頼朝と木曽義仲との印象が強いが、実際には当時全国で平家支配に対する蜂起が起こっている。
西国の九州でも、また熊野でも、京の近くでは近江でも起こっている。
比叡山延暦寺や三井寺とも呼ばれる園城寺、興福寺などもそうである。
「源氏対平家」ではない。
前述の点は状況証拠の域を出ないが、大正時代初期の八代国治は、より直接的な史料批判、史料解剖として『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他、京系の多く史料が原出典となっていることを見つける。
そして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所、計29ヶ所を具体的に紹介した。
その内、藤原定家の『明月記』が資料として使われているとされる部分は非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。
そしてそれらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世での編纂物であると八代は断定する。
八代国治が指摘した文献との関係ついてはその後も検証がなされ、現時点で五味文彦らは、源平合戦時代の公家の日記『玉葉』や『吉記』などが利用された形跡は無いとしている。
当時の奉行人達はそれを見ることは出来なかったのだろう。
また、『平家物語』や『承久記』、『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それぞれの元となった史料(合戦記)をそれぞれの視角で利用したのではないかとする。
そうした修整はあるものの、『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認されているし、また八代の指摘ではないが『十訓抄』なども顕彰記事に利用された可能性が高い。
吾妻鏡の顕彰と曲筆
編集者の意図しないミス、用いた史料からの誤謬を除いて、ここでは意図的な曲筆と顕彰について述べる。
言うまでもなく、それが『吾妻鏡』を歴史資料として利用する上で、もっとも注意しなければならない点だからである。
源頼家 (北条時政の弁護)
『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記であり、源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからかと誰しも思っている。
しかし、それが真実の姿であった証拠は何もなく、逆に曲筆と疑われるものは無数にある。
曲筆の確実な証拠があるのが頼家の最後である。
頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると1203年(建仁3年)9月2日の比企能員の変の直後、『吾妻鏡』1203年(建仁3年)9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことが決定したとある。
そしてその頼家の死は翌年の1204年(元久元年)7月19日条である。
しかし京の朝廷には、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が1203年(建仁3年)9月7日早朝に到着し、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請していることが近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。
頼家が存命どころかまだ出家(退位)もしていないにもかかわらずである。
初期御家人の明暗
『吾妻鏡』の中では、人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は畠山重忠の謀殺に反対して、父時政に熱弁をふるう。
「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と。
歴史小説と同じ感覚で『吾妻鏡』を読む者はともかく、歴史史料としてこれを読む者にこの記述を鵜呑みにする者はいない。
梶原景時は北条氏の策略とまでは言えないがいうまでもなく追い落とした側、和田義盛、比企能員についても、主に北条氏に滅ぼされたものであり、それらの真相を『吾妻鏡』から知ることは出来ないことも定説となっている。
それとは別に、頼朝の挙兵直後、まだ鎌倉へ入る前に、房総の大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた御家人に同族の上総介広常と千葉常胤が居る。
・上総介広常
上総介広常は頼朝が梶原景時に殺させたが、その理由は『吾妻鏡』でも明らかではない。
おそらくは編纂者も知らなかったのだろう。
ただし、『吾妻鏡』には上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれる。
上総介平広常は千葉介常胤の様な源家に対する忠君の士ではなかった、粗暴な男だったと。
その最たるものは1180年(治承4年)9月19日条上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話しである。
『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。
こういう場合は文飾がほとんどとされるが、だいたい広常が内心思ったことを何故後世の編纂者が知り得たのだろうか。
尚、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は『吾妻鏡』では2万騎とあるが『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には1千騎であり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。
上総国の江戸時代初期の石高から鎌倉時代初期の石高を概算しても、『源平闘諍録』の1千騎(約3千名)ぐらいが実状に近いと推定される。
そして1183年(寿永2年)12月22日に上総介広常は頼朝に殺され、その所領の大半は千葉常胤、和田義盛ら三浦氏のものとなる。
・千葉常胤
その千葉常胤はどう描かれるか。
1180年(治承4年)9月9日条は実に有名な下りで、千葉常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなりてえり」と感動して涙ぐむ、そして頼朝は何故鎌倉を選んだのかという話しに必ず引用されるのもこのときの千葉常胤の献策である。
鎌倉は「御曩跡」の地、「要害の地」、つまり天然の城だからというのである。
しかし千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手ではないことは相馬御厨での経緯を見れば明らかである。
黒田紘一郎は、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があるとする。
千葉氏は源家累代の家人ではない。
千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような、両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであった。
それは関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである。
ところで、1180年(治承4年)8月29日条の「武衛實平を相具し、扁舟に棹さし安房の国平北郡猟島に着かしめ給う。」とある。
それ以降、10月6日の鎌倉入りまでは資料は何に求めたのだろうか。
頼朝の右筆藤原邦通は安房には渡っていない。
北条時政も一旦は安房へ渡ったがすぐに甲斐に向かい頼朝に同行してはいない。
この後鎌倉入りまで北条義時も頼朝の側には書かれていない。
この期間を詳細に後世に伝えられる家としては千葉氏を筆頭に、あとは三浦氏の佐原義連の家系であり、それらの家に伝えられた伝承が『吾妻鏡』に取り込まれたと仮定すれば全ては符合する。
・三善康信
先に触れた問注所の三善康連の父、三善康信(善信)であるが、確かに彼が残した記録が編纂のベースのひとつとして利用されたであろう。
しかし注意しなければならないのは、三善康信自信に関わる記述の中に、彼を意図的に、ものによっては露骨な顕彰と見られるものが非常に多いことである。
八代国治は『明月記』を集中的に検証を加え『吾妻鏡』1211年(建暦元年)11月4日条を見つけるが、これは『明月記』1211年(建暦元年)10月23日条を若干縮めて書いたものである。
更に翌年の1212年(建暦2年)には「適有造営事、須上臈上卿宰相弁奉之歟」と『明月記』1212年(建暦2年)7月27日条の丸写しがある。
そこに大夫属入道とあるのも善信とあるのも三善康信のことである。
八代国治はこの2件とも、三善康信の評、または献策として書かれており、『吾妻鏡』が後年の編纂物である証拠であって、またそしてこのことからも、三善氏の子孫たる町野、大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかと推測する。
近年では五味文彦も、1184年(寿永3年)4月に三善康信が鎌倉に参着したときの記述、1184年(寿永3年)4月14日条の「本よりその志関東に在り」、翌4月15日条の「武家の政務を補佐すべきの由」などに顕彰の意図を感じており、「相当に疑わしい」と指摘する。
また1191年(建久2年)6月9日条には、一条能保の娘の左大将九条良経との婚姻に際しその衣装が遅れ、その沙汰をした御台所北条政子か頼朝が「御気色不快」になったときに善信(三善康信)が「秀句」を語って怒っていた政子か頼朝は「御入興」でお咎めを回避したなど、総じてエピソードのたぐいによく登場する。
・大江広元
大江広元に関してこれまで最も注目されてきたのは、1185年(文治元年)11月12日条の有名な「守護地頭」設置を献策したという下りである。
かつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。
しかしその最も注目されてきた記事が顕彰の面でも注目される。
同年11月28日条には北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したと書かれている。
しかし同じ事実を書き記した九条兼実の『玉葉』には「守護地頭」とは書かれていない。
1960年に石母田正はこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代の後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。
そしてその石母田正氏の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り、現在ではこの段階は国地頭制として、守護制の前段階とされる。
「守護地頭」はともかく、1185年(文治元年)当時の朝廷側の公卿の日記『玉葉』にもある「庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」との要求の献策は大江広元が行ったのだろう。
しかし「二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり」は「守護地頭」の言葉とともに後年の編纂時に追加されたものと思われる。
となればこれは広元の顕彰を意図した記事ということになる。
・二階堂行光
頼家・実朝将軍記では二階堂行光の筆録が多く利用されたと見られているが、その二階堂行光にも意図的な顕彰と見られる記事がある。
1204年(元久元年)9月15日条である。
その日源実朝は北条義時の家(相州御亭)を訪れたが月蝕の為に逗留を余儀なくされた。
そこで二階堂行光は白河天皇の古事を語り「相州殊に御感」と北条義時を感心させたと。
ところがこの逸話は『十訓抄』1の24話なのである。
また、『金槐和歌集』から編纂者が採録したのであろうとされる部分もあることを八代国治が指摘している。
1213年(建保元=建暦3)12月19日条から翌20日条なのだが、『金槐和歌集』では1212年(建暦2年)12月とある。
その内容は決して嘘偽りでも粉飾でもないが、編者の行光顕彰の意図があったことは間違いあるまい。
・北条泰時
顕彰と云えば、その最たるものは北条泰時である。
直接の政争以外はつい警戒心を解いてしまうが、もう少し注意せねばというのが有名な1200年(正治2年)4月8日条である。
有力貴族の一員若狭前司保季が、御家人の郎等(武士)の妻を白昼六條万里小路に於いて犯す。
怒ったその武士が太刀を取ってこれを追い、六條南・万里小路西、九條面平門の内でその貴族を斬り殺した。
その武士を捕らえてあるが、どう裁こいたらよいだろうと京の六波羅から早馬が来る。
それに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。それも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったと。
事件そのものもは、実は『明月記』1200年(正治2年)3月29日条での藤原定家の日記に書かれていた事件で、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想を写したものである。
北条泰時の顕彰記事は数限りなくある。
・北条時頼
北条時頼について八代国治が指摘するのはその卒去の記述『吾妻鏡』1263年(弘長3年)11月22日条である。
実に感動的なのだが、「頌云」の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。
遺曷を他人の引用で済ませるなどということが、禅宗に帰依した時頼にとって宗旨上もあり得たことだろうか。
八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。
また『吾妻鏡』1241年(仁治2年)11月29日条と翌11月30日条にはこういうことが書かれている。
有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことから端を発してあわや一戦にという事件が起った。
時頼の兄の北条経時はこの事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと配下の者を武装させて差し向けた。
それに対して弟の時頼は酒の場での喧嘩だからと静観していた。
二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨なり、暫く前に来るべからず」と怒り。
一方時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒められ、数日後に領地を与えられたというのである。
時頼が15歳のときである。
兄北条経時は祖父泰時の後を継いで19歳で4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、直後に死亡する。
経時の幼子が2人は時頼の意向で出家させられ僧となった。
この過程もかなり不透明である。
そして『吾妻鏡』は「そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだ」と言っている。
編纂時期と背景
編纂時期
明治時代の歴史学者星野恒と原勝郎は、範囲にだいぶ隔たりはあるのだが『吾妻鏡』の少なくとも後半は日記だろうとした。
いずれにしても宗尊親王の頃までには前半の編纂も終わっていることになる。
それに対して1912年(大正元年)に和田英松は『吾妻鏡古写本考』の中で全てが後世での編纂とし、その時期は北条時宗、北条政村が執権・連署の時代とした。
1913年(大正2年)、和田の同僚であった八代国治は、『吾妻鏡の研究』で、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とは大きな隔たりがあるとし、編纂二段階説を唱える。
前半の源氏三代将軍記の編纂年代は和田英松同様に時宗・政村の時代、1242年(仁治3年)7月以降、1270年前後とするが、後半は第42巻の宗尊将軍記の袖書きに後深草天皇が1290年(正応3年)2月に出家していると記していることからそれ以降。
そして「院」とのみ記し、没後の謚(おくりな)である「後深草院」とは呼んでいないことからその存命の間、つまり1290年(正応3年)より1304年(嘉元2年)7月16日までの間と推定する。
ただし二段階説には戦後、益田宗、笠松宏至らの批判があり、五味文彦も二段階説を裏付ける積極的な証拠は乏しいとして、全てを八代国治の言うところの後半の編纂時期、1304年(嘉元2年)までの数年間とする。
五味文彦が八代国治の第一段階目を否定するのは次の3点からである。
藤原定家の『明月記』は『吾妻鏡』1200年(正治2年)3月27日条から頼家・実朝将軍記に限って使用されているが、『吾妻鏡』の編纂者がそれを借り受け、書写したとしたら、その時期は1290年頃から以降となろう。
というのは、藤原定家から『明月記』を受け継いだ孫の冷泉為相は、その頃領地の訴訟をきっかけに鎌倉に滞在し、藤ヶ谷に住んで鎌倉の歌壇を指導している。
当然幕府高官、特に太田時連ら文士との交流はそれ以降かなり密になったと思われるからである。
笠松宏至などの研究により、32人の交名の文書が、相論(訴訟)の証拠物件として提出されたのは1299年(永仁7年:改元にて正安元年)頃となることが明らかになっている。
その文書は八代国治の説では第一段階目、1270年前後に編集されたはずの、1205年(元久2年)閏7月29日条にある「河野の四郎通信勲功他に異なるに依って、伊予国の御家人三十二人守護の沙汰を止め、通信が沙汰と為す」以下にある。
それも含めて原資料として用いられた文書には、1297年(永仁5年)に9代執権北条貞時が発令した永仁の徳政令発布以降の相論(訴訟)に証拠として持ち出された偽文書が多い。
それらの点から、五味文彦は吾妻鏡の成立は1297年(永仁5年)以降、1304年(嘉元2年)7月までの間、つまり1300年頃であろうとし、それが現在定説となっている。
ただし五味文彦は、それ以前の1235年頃に、「頼朝将軍記」とかの『原吾妻鏡』と呼べるような歴史書が原型として出来上がり、同じころに京都では『原平家物語』が著され、また東国では『原曽我物語』がつくられたということもあり得るのではないかとする。
編纂者についての戦後の研究
戦後の研究では、編纂者については幕府内部の有力者金沢北条氏の周辺であろうとする見方も強い。
後述する『吾妻鏡』の北条本、黒川本などの原本は金沢文庫本とされ、その金沢文庫との関係からも全体の統括者として考えやすい人物である。
しかし全体の統括者については確たる手がかりはない。
直接の編纂者について、八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかとしたことは既に述べた。
そして近年、五味文彦が八代国治の推測を具体的に検証する形で研究している。
尚、五味文彦は1989年の増補前の『吾妻鏡の方法』における「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政・二階堂行光、後藤基綱・中原師員、二階堂行方・中原師連をあげている。
2000年の『増補 吾妻鏡の方法』において五味文彦はどのようにアプローチしたのかというと主に次の2点である。
ひとつは盗意図的な顕彰の中でも既に見てきた実務官僚に関する部分である。
その面々をもう一度記しておこう。
三善康信、二階堂行光、大江広元である。
それ以外にやはり顕彰されているのは得宗家以外では北条時房、三善康連(大田康連)、平盛綱、北条実時らである。
もうひとつは出産記事である。
天皇家、得宗家嫡流を除けば北条有時、北条政村、北条時輔、北条宗政、北条時兼、とそこまでは北条一門ということで理解出来るが、一人だけ文士の家柄が混じっている。
1222年 (貞応元年)9月21日条に、二階堂行政の孫、二階堂行盛に子が生まれたとある。
そのとき生まれたのは1302年に政所執事に再任された二階堂行貞の祖父、二階堂行忠である。
こうして見ていくと、文筆の家ではもっとも露骨に顕彰されている三善康信の子孫で、時期に該当するのは1293年(永仁元)から1321年(元亨元)まで問注所執事であった太田時連が候補の筆頭として上がり、二階堂行貞もまた編纂者であった可能性が高い。
大江広元も顕彰されているところから、その子孫で1300年前後に評定衆、寄合衆であった長井宗秀もまた浮かびあがる。
そして北条氏の中では北条貞顕だろう。
1260年(文応元年)7月6日条など、金沢家にあった北条実時の記録としか思えない記事が『吾妻鏡』にはある。
そのメンバーが幕府の主要ポストに顔を揃えるのは1302年である。
『吾妻鏡』に見る「家」の形成
ところで、1309年の北条貞時政権の中核、寄合衆のメンバーが金沢文庫の古文書によって知られるが、北条一門について、これに1302年(乾元 (日本)元年)当時の寄合衆のメンバーを加えて見ていくと以下のようになる。
北条師時
師時は貞時が出家して執権を退いた1301年に10代執権となっていた。
師時は北条時宗の同母弟として出産記事のある北条宗政の子であり、母はこれもまた出産記事がある7代執権北条政村の娘。
北条宣時とその子北条宗宣
宣時は顕彰記事のある北条時房の孫で、貞時の執権時代に連署であった。
時房は『吾妻鏡』では北条泰時の連署としてそれを支えたとされる。
宗宣はその宣時の子であり、1302年当時は一番引付頭人で官途奉行、翌年北条宗方とともに越訴頭人となる。
北条庶流では連署北条時村に次ぐナンバー2と見られる。
その時村が殺された嘉元の乱で北条宗方を討ち、直後に連署となる。
更に北条師時死後11代執権となった。
北条時村、北条煕時
時村はこの時期北条庶流の長老ナンバー1であり、大仏宣時のあとに連署となっていた。
その時村は出産記事がある7代執権北条政村の子である。
煕時は時村の孫で、1302年(乾元元年)当時六番引付頭人であったが、嘉元の乱の直後に、殺された祖父時村の地位を継いで寄合衆に登ったと思われる。
1312年(応長2年)大仏宗宣の後の12代執権となった。
金沢貞顕
貞顕の祖は顕彰記事の多い北条実時であり、実時は北条時頼を支えたとされ金沢家の事実上の初代である。
そして実泰、実時、北条顕時(貞顕の父)の三代に渡って記されていることも注目される。
後に15代執権となった。
極楽寺流北条久時、北条基時
久時はこの頃一番二番引付頭人を務め、その祖は5代執権北条時頼の頃連署を務めた極楽寺の北条重時である。
重時の娘は北条時頼に嫁いで北条時宗、北条宗政を生んでいる。
また重時の子北条長時が時頼の後の6代執権となっておりその孫が久時である。
基時は1302年(乾元元年)当時六波羅探題北方で、この時期の寄合衆としては確認出来ないが、その祖父で赤橋長時の弟の北条業時の子として父北条時兼の出産記事がある。
後に北条煕時の後13代執権となった。
1309年の寄合衆の中の北条氏以外では、姻戚では安達時顕、大江氏の長井宗秀。
三善氏の太田時連、得宗被官では長崎高綱、尾藤時綱らがいる。
1302年(乾元元年)当時の幕府要人には当然得宗被官は現れないが、その裏で得宗家を支える存在であったろう。
その長崎氏や尾藤氏の家祖についても顕彰され、あるいは最初の得宗家被官として記されている。
つまり1302年前後の幕府・得宗家を支える主要メンバーの家の形成が『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれていることが解る。
例外は赤橋久時であるが、赤橋家は久時の祖父北条長時以来、10代で叙爵し、20代で引付衆を経ることなく直に評定衆に就任するなど得宗家に次ぐ家格の高さを示していた。
ところが出産記事も、ことさらな顕彰記事も無い。
しかし詳細に見ていくと、赤橋久時の父北条義宗は1277年(建治2年)に評定衆になって僅か2ヶ月で没している。
そのとき嫡男久時はまだ5歳で、久時が寄合衆となったのは1304年(嘉元2年)3月6日、33歳のときとされる。
従ってちょうど『吾妻鏡』の編纂時期とみられる頃には赤橋家は寄合衆には加わっておらず、そのことが反映されているのだとしたら、これは例外ではなく逆に『吾妻鏡』の編纂は1302年前後、1304年までの間であることの傍証となる。
では何故赤橋家庶流の普音寺家北条時兼の出産記事があるのかということだが、あるいは出産した母が北条政村の娘であることが影響しているのかもしれない。
こうしてみると、北条政村の家に伝わる記録が相当『吾妻鏡』に反映されているのではとも推測される。
編纂年の時代背景
1300年の前後数年がどういう時代であったかというと、既に見てきたとおり執権北条貞時の時代である。
この時代は禅宗寺院での文化的な華やかさとは裏腹に、古き良き御家人時代が終わりを告げ、北条得宗家の独裁、更にその内から得宗家執事の独裁となり、1333年の鎌倉幕府崩壊へと進んでゆく。
1285年(弘安8年)11月に得宗家執事(内管領)平頼綱と、外戚安達泰盛との権力闘争が霜月騒動となってあらわれ安達一族が滅ぶ。
1293年(正応6年)4月に、今度は執権北条貞時自身がその平頼綱を討つ(平禅門の乱)。
1297年(永仁5年)に永仁の徳政令(関東御徳政)の発布がある。
これは元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するためと理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、それによる幕府の基盤御家人体制の維持に力点があったと理解されている。
幕府は惣領制を御家人支配の基盤としたが、実はこの時期、武士団分割相続と惣領制により中小御家人は零細化し、そして貨幣経済の進展に翻弄されて多くは崩壊を初めていた。
御家人側のせめてもの家の保身が、嫡男による単独相続への変化、ある面では「家」の確立とも言える。
1301年(正安3年)、執権職を従兄弟の北条師時に譲って引退したが、これは引退というより、重鎮の連署・北条宣時を道連れに引退させるためのものと見る向きもある。
鎌倉の主は得宗家の惣領であって、時頼の時代より執権職が鎌倉の主、得宗家の惣領を現すものでは無くなっている。
当然政治の実権はなおも握り続けた。
1305年(嘉元3年)4月23日、得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村を「仰ト号シテ夜討」し、殺害。
屋敷一帯は炎に包まれた。
その12日後、北条庶流を代表する一番引付頭人北条宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司であった北条宗方を追討。
宗方は佐々木時清と相打ちとなり、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷には火をかけられ、宗方側の多くの郎等が戦死。
いわゆる嘉元の乱である。
『保暦間記』によれば北条宗方の野心とされるが、北条一門の暗闘の真相は不明である。
独裁政治と云われる得宗体制のその内部は決して安定したものでも、一方的なものでもなかったことが覗える。
1308年(延慶元年)8月 御内人の平政連が貞時を諌めるため提出した「平政連諫草(たいらのまさつらいさめぐさ)」には「今は、漸く政要に疎し」「早々と連日の酒宴を相止め」と、政務を放りだし酒に溺れていた様が覗える。
14世紀初頭、北条得宗家の寄合衆を実態とする鎌倉幕府は、専制の頂点を極めつつもその進むべき道が見出せなくなっていた。
平安時代の後期、院政期頃にすこしづつ形を成してきた所謂「イエ」の概念が、更に家格の形成、家業・家職の固定化として京の公家社会から進んでいったことを五味文彦は示唆している。
また、本当に固定化されて前段階の「イエ」から「家」に脱皮したのがこの時代であるとも示唆している。
それがそのまま、鎌倉政権の中にも浸透し、得宗家の確立、それを取り囲む共同利益集団の北条庶流の家格の形成、同時に文筆の家でもそれに似た、あるいはそれ以上の家格の形成・家職の固定化が進んでいった。
またその過程で、それまでの緩い惣領制から同族諸流の家格・家職争いや独立志向も熾烈化する。
貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ったあと、平頼綱が実権を握っていた間の政策や人事を否定し、父北条時宗の時代の人事に戻す。
しかしそれは決して北条時宗の時代への単純な回帰ではなくて、1293年(永仁元年)10月にはそれまでの引付頭人を廃止して執奏を置いた。
更に翌年には貞時が直接下した裁定には越訴を認めないなどそれまでの得宗体制には見られなかった専制の度合いを強める。
人事についてもめまぐるしく変わる。
内管領とまでいわれた得宗家執事についてもそうである。
北条泰時以来、執権・得宗体制を支えてきた北条庶流との利害の対立も先鋭化し、その対立の行き着いた先が『吾妻鏡』編纂年の下限とされる1304年の翌年に起こった嘉元の乱であるという見方もある。
そうした時代に、『吾妻鏡』が編纂され、北条貞時政権の担い手(寄合衆)達、特に文筆の家の者が中心になって、自分達の寄って立つ鎌倉幕府、北条得宗家体制の成立、その中で源氏三代、そして北条泰時、北条時頼の時代を回顧され、そしてそれぞれの「家」の成立・形成を示しながら鎌倉幕府の歴史が振り返られていく。
歴史資料としての価値
星野恒
星野恒の『吾妻鏡考』(1889年)について諸研究書に見る限り、『吾妻鏡』を幕府記録の嚆矢(こうし)であり、武家制度、法令、政治経済を理解する上で必須の史料と位置づけている。
『吾妻鏡』を研究史料の俎板に乗せた点で、『吾妻鏡』研究の出発点ともなったことは確かである。
原勝郎
しかし、星野は源平盛衰記の時代、つまり1185年の平家滅亡までや、源頼家の将軍職退位など、あまりにも明らかな部分以外にはほとんど疑いを抱いていなかった。
原勝郎が『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表したのはそれに対する警鐘だったのだろう。
原勝郎は、史料として吾妻鏡の価値は「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」にあるとする。
それらの多くは政所や問注所に關係ある諸家の筆録、その他の記録であろうし、それらに政治的曲筆が入り込む可能性は少ないだろう。
しかし政治史の材料としては信憑すべき直接史料とはみなし難いとする。
八代国治
八代国治は『吾妻鏡』に恨みでもあるのだろうか、源頼家の怨霊が乗り移ったのだろうか、と思いたくなるぐらい『吾妻鏡』を語気強くこき下ろすが、これもまた原勝郎の警鐘の続きである。
原勝郎が1898年(明治31年)に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表してから15年経っても、まだ当時の歴史学会には吾妻鏡絶対主義とでもいうような風潮がかなりあったのだろう。
その八代国治は、『吾妻鏡』の価値について、原と同じように政権闘争史に関する史料としては、一等史料として信用し難いとする。
その一方で、幕府政所、問注所、及び之に関係せる者等の日記、記録、文書、及び京都公家の日記などの資料よって編纂した部分が大部分を占め、その編纂も幼稚で余り斧削を加えていない。
従って、曲筆、偽文書、意図的な顕彰を注意深く取り除けば、鎌倉時代の根本資料として恐らくは之に比敵するものはあるまいとする。
佐藤進一
その八代国治の研究は明治から大正の初期にかけてのものだが、戦後1955年の佐藤進一・池内義資編の『中世法制史料集』の態度は、八代国治いうところの「上述の誤謬を糾し、粗漏を除き」という作業が如何に難しいかを物語っている。
そこでは「対応資料の見出せない場合には一切吾妻鏡を採録せず、後日の研究を俟つことにした」とする。
先に顕彰記事に関して紹介した「守護・地頭」設置に関わる学会での論争が、『中世法制史料集』編纂より後に起こったものであることを考えれば、佐藤進一らが慎重になったのも頷ける。
五味文彦
近年『吾妻鏡』の研究で大きな仕事をしたのは五味文彦であるが、五味文彦は『中世法制史料集』の態度を紹介しながら、それでも『吾妻鏡』は、実に豊かな法令を含んでいるという。
近年での五味文彦の吾妻鏡研究はそこに係わる取り組みである。
五味文彦は、原史料の見通しをつけることができれば、編纂のありかた、誤謬のあり方も自然にわかってくるだろう。
そうすれば八代国治がその著書の最後に述べたように、鎌倉時代の根本資料として有益な情報を抽出出来るはずだとする。
八代の編年などの推定などいくつかの点は、確かに五味文彦らによって修整はされるが、八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかとした点を、五味文彦は更に詳細に証明していった。
そして「原史料の見通し」、ベースとなる筆録の著者を独自の方法で割り出す。
五味文彦の研究は、八代がその著書の結びとした「鎌倉時代の根本資料として価値を失わざるのみならず、恐らくは之に比敵するものあらざるべし」という方向で、更に具体的に研究と推論を発展させたものといえるだろう。
系統
吾妻鏡は金沢文庫にあった原本が、小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に渡ったと思われやすいが、現在の研究では、吾妻鏡は早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や、数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったのかもしれない。
それらを集めて、42巻とか43巻とかまでに収集と補訂が行われたものが北条本系では徳川家康、吉川本では右田弘詮(陶弘詮)の手に渡り、そこで更に欠損分の収集が行われて、51巻あるいは48巻という形に復元されていった。
またその系譜は2グループあり、北条本、黒川本は応永年間(1394~1427年)に金沢文庫本により書写されたものの系統を引き、吉川本はそれとはまったく別系統となる。
編纂者の候補として最も有力な太田時連(問注所の三善氏)は「武家宿老故実者」として足利氏の室町幕府にも仕えている。
その日記『永仁三年記』は太田の家に伝えられ、やがて室町時代に加賀前司町野淳康が継承したという。
それらのことから『吾妻鏡』には金沢文庫に収められたものと、太田時連が手元に所持したものの2つがあり、太田時連とともに京に行ったものが、その日記同様に室町時代に他家の所持に移り、吉川本の元となったのかもしれないと推測される。
北条本
現在もっとも一般的なテキストである1933年(昭和8年)の『新訂増補国史大系』の底本となるものは北条本と呼ばれ、後北条氏が所蔵していた写本とされていた。
それを1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北條氏直が小田原開城の交渉において折衝にあたった黒田如水に贈ったものを、後の1604年(慶長9年)に如水の子黒田長政から徳川家康に献上されたと。
しかしながら、家康による古活字本開版の準備が1603年(慶長8年)には始まっていることから、この説には疑問もあり、楮紙の古い料紙の32冊と、楮紙の古い料紙に修善寺紙を用いた補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊の計43巻を家康は1603年(慶長8年)以前に一括して手に入れていたと推定される。
その元になる32冊は黒川本(和学講談所本)と同様に、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に文亀年間(1501~1504年)に書き写したものと見られている。
それにより古活字本開版の準備をしていた処に、黒田長政献上のものを含むめて、不足分8冊(白紙に近い紙)をそれまで入手していたものと同じ書式で書き写させて51冊とし、これを1605年(慶長10年)印行の底本としたのではと現在では推定されている。
その古活字本には3種類あるが、最も有名なものが1605年(慶長10年)印行の伏見版であり、外題・版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文がある。
他は慶長元和 (日本)間刊のもの、元和末刊のものである。
原本は家康没後、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在は国立公文書館蔵で、重要文化財である。
尚、『新訂増補国史大系』はこの北条本を底本としながらも、吉川本も校合に用いられた。
黒川本
元は『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂の蔵印がある。
目録の終わりに「応永11年甲申(1404年)8月25日金沢文庫御本書之」とあり、1404年(応永11年)に金沢文庫本から書写したものを更に書写したものと推定される。
ただし、北条本とは僅かに異なる処もあり、北条本からの書写ではなく、共に1404年(応永11年)の古写本からの書写であると見られている。
52巻25冊が現存したが関東大震災で焼失したという。
島津本
島津家文書の一部として国宝に指定されている。
巻首にある系図からは天文 (元号)年間(1532~1555年)と推定され、更に冒頭の目録に無い3年分(北条本にもない)が含まれていることなどから、吉川本同様に島津家においても天文年間以降、更に収集と補訂が行われて成立したと見られている。
原本は1650年(慶安3年)に幕府に献上された。
現在島津家に残るものはそのときの書写本とされる。
幕府に献上された島津本は現在は行方不明であるが、徳川家所蔵の所謂北条本に欠けていた部分を多く含み、その差分が『吾妻鏡脱漏』または『東鑑脱纂』として1668年(寛文8年)に木版で出版された。
その差分は主に祈寿祭礼に関する記事が多いという。
尚、『吾妻鏡』編纂者と推測されるものの中に二階堂行貞が居るが、二階堂文書には、その家に伝わった『吾妻鏡』を15世紀末(推定)に島津家に譲り渡したとの記録が残っている。
毛利本
島津本と同系のものに、毛利本がある。
毛利本には1596年(文禄5年)3月11日付けの大徳寺の宝叔宗珍の書写奥書があり、毛利藩に伝えられた。
島津本と同系ではあるが、島津本よりも書写年は古く、そこからの転写ではない。
現在は明治大学図書館蔵。
吉川本
蔵、重文。
現在では吾妻鏡の最善本と目されている。
大内氏の重臣陶氏の一族、右田弘詮(陶弘詮)によって収集されたものである。
右田弘詮は、1501年(文亀元)頃、その写本42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。
しかしそれには20数年分の欠落があった。
弘詮はその後ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。
これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。
1523年(大永3年)9月5日のことである。
それがその後右田弘詮が仕えた大内氏の滅亡とともに、毛利元就の子、吉川元春の手に移り、以降吉川家に伝えられた。
記事に3年分の欠損はあるが、島津本の『吾妻鏡脱漏』部分を全て含み、それ以外にも日の単位で数百箇所が吉川本のみにある。
北条本と島津本の差分『吾妻鏡脱漏』のその差分は祈寿祭礼に関する記事が多いと既に述べたが、北条本と吉川本の差分についても同様である。
その前半部分においては殆ど一致し、差異があるのは後半部分である。
それらのことから和田英松は「吾妻鏡古写本考」において、北条本や黒川本の源流である金沢文庫本は節略本であり、吉川本はそれより前の編集途中の版をベースとした写本であろうとしたという。
そして八代国治は、節略増補、つまり編纂途中で斧削を加える前の段階を思わせる吉川本の史料価値は北条本に勝るとする。
流布している俗説
吾妻鏡は基本的には価値の高い史料であるが、源頼朝の死亡時期に、3年以上の記事がないなど欠落している箇所もある。
それに対して、江戸時代に徳川家康が、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったという俗説がまことしやかに流布している。
もちろんこの説に証拠は無い。
そうなんじゃないかという憶測に過ぎない。
そうした憶測は先に述べたように、吾妻鏡は金沢文庫に完本であった原本が、小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に完本の常態で渡っていたのではという想像から始まっている。
しかしそれがそうではないことは前述の通りである。