日本書紀 (Nihonshoki (Chronicles of Japan))
日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。
日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。
舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。
日本神話から持統天皇の時代までを扱う。
漢文・編年体をとる。
全30巻、系図1巻。
系図は失われた。
成立過程
日本書紀成立の経緯
『古事記』と異なり『日本書紀』には、その成立の経緯が書かれていない。
しかし後に成立した『続日本紀』の記述により、成立の経緯を知ることができる。
『続日本紀』の養老四年(AD720)五月癸酉条には、以下のようにある。
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
その意味は下記のことである(ここに『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
記述の信頼性
中国の史書、『晋書』安帝 (東晋)には、266年に倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。
この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録は無いことから、「謎の4世紀」と呼ばれている。
倭の五王の上表文や隅田八幡神社鏡銘、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。
しかし、当時朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。
金錯銘鉄剣の発見により、雄略天皇の実在は確実であるとして、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承にある程度の証拠能力を認めてもよいとする意見も存在する。
一方、実証主義的観点から、記紀や『上宮記』を全面的に信用することは出来ないとして、継体天皇以前の大王の名や系図等は信頼性に乏しいという慎重な意見もある。
稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である。
ただし、それが正確な史実であるかどうかは不明である。
同様に、4世紀後半以前の皇室の祖先については、事実を正確に記録していたかどうかは不明である。
『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 に以下のような記述がある。
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
文字なし。
ただ木を刻み縄を結ぶのみ。
百済において仏法を敬い、仏経を求得し、初めて文字あり。
この記述を根拠として、朝廷内での文字の常用はおそらく西暦600年前後、厩戸皇子(聖徳太子)の頃であり、継体天皇即位の頃については文字としての記録は無く、口頭での言い伝えとして大和朝廷周辺に記憶があったのみであるとする説もある。
現代の研究では、『古事記』や『日本書紀』の継体天皇以前の記述、特に編年は正確さを保証できないと考えられている。
そのことは継体天皇の没年が『古事記』と『日本書紀』で三説があげられ、『書紀』の編者は外国資料である『百済本記』に基づき531年説を本文に採用したことからも推察することができる。
皇室の歴代や系図の成立過程については、継体の系図を記録した『上宮記』や、現在は伝わらない聖徳太子による国史の成立以前にも各種の系図は存在した。
が、様々な系図に祖先として伝説上の人物を書いたもので正確な内容ではない。
これらを参考にして『上宮記』や『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。
仮に推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は、当時から70年前である。
なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀頃の成立と考えられている。
『日本書紀』には推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。
当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しい。
その編纂が仮に事実であったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。
なお、『日本書紀』によれば、この時聖徳太子らが作った歴史書『国記』、『天皇記』は蘇我蝦夷・蘇我入鹿が滅ぼされた時に大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。
また、かつて百済三書は六世紀後半の威徳王の時代に対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたと見られていた。
日本書紀の編者はその原文を価値あるものとして重んじていたと考えられてきた。
だからこそ百済三書に基づいてる日本書紀の記事を厳正に選び、これを繋ぎ合せていくと、日朝関係の実像が客観的に復元できると固く信じられていた。
しかし、そのように高い信用性をもつと考えられた記事の中に、百済王の言葉として、自分は天皇の「黎民」と「封」建された領土とを治めている、自分たちの国は天皇に「調」を貢いで仕えまつる「官家(みやけ)」の国、元来の天皇の「封」域を侵して「新羅の折れる」加羅諸国を天皇の命令で「本貫に還し属け」てほしいなど、自分は天皇の「蕃」(藩屏)をなす「臣」などこの種の表現があふれている。
地の文には、百済王が、天皇から全羅北道の地を「賜」与されたとある。
百済三書の中でも最も記録性に富むのは『百済本記』である。
それに基づいた『継体紀』『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多い。
「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす、と」とあるように「任那日本府」もその中に表れている。
百済王に「賜」与したとか、新羅王が「封」域を侵したという地の古地名を考証し、その最も北に線を引いたもの、それがかつての日本における「任那境域の縮小過程」図の「370年ころ」の「直轄領土」であった。
その直轄地域とは全羅道、忠清道の南半分、慶尚道の西半分の広大な地域である。
それは百済三書に依拠しており、それだけに長く信用されてきた。
しかし、それまで日本で信じられてきた通説は誤りに基づいていたことが判明した。
『神功紀』『応神紀』の注釈に引用された『百済記』に「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」、「阿花王立つ、貴国に礼なし」、(木刕満致は)「我が国に来入りて、貴国に往還ふ」「日本の貴国」などと記述されている。
この「貴国」を「二人称的称呼」(あなたのおくに)とそれまでの日本の学者は誤解していた。
総ての説明はここから始っている。
しかし日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいる。
貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味である。
「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と揆(原文まま)を一にしており、それは天武の時代である。
六世紀後半はもちろんのこと「推古朝」にも存在していないと考えられている。
百済三書の実態について今日では次のように考えられている。
百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍に遡ると推定されている。
七世紀末~八世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族、貴族が、持ってきた本国の史書から改めて編纂し直して天皇の官府に進めたと考えられている。
そして日本書紀の編纂者はこれに大幅に手を加えている。
仮に百済三書の「原文」にまで遡ることができたとしても、用字用語や評価、意味付けは、7、8世紀の交の日本において理解しなければならず、すぐに百済の原史籍の内容に遡ることは出来ない。
記事当代の記録を推測するのは至難である。
とにかく7、8世紀の交の意味付けはこれを徹底的に排し、百済王朝側の正当化の論理に十分用心して、客観的事実のみから蓋然性の範囲を推測しなければならない。
7世紀末以後の亡命した百済王族・貴族は、残らず全て天皇の臣下として組織されていたということがその理由である。
8世紀半ばごろまで難波の百済郡には、「天皇」が藩屏として冊立する「百済王」の「小百済国」的実体が存続していた可能性さえ考えられる。
根本的な事実である律令国家体制下の編纂という時代の性質、編纂の主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質、政治的な地位の保全への期待という思想性、それらを無視して百済三書に基づく日本書紀の記述を読むことは全くもって不可能である。
天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城、維鳩、公州付近から全羅道の栄山江、蟾津江流域にまで及んでいる。
これは、滅亡時の百済王が独立して、かつ正当に統治していた国家の領土とほぼ一致している。
しかし7,8世紀の交の在日百済王族、貴族は、それを天皇から委任された統治と表現せざるを得ない臣下の立場に置かれていた。
このような観念を実体化して「高麗、百済、新羅、任那」は「海表の蕃屏として」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体紀』)などというのは完全に虚構の歴史である。
「直轄領」と「保護国」とをもつ「東夷の小帝国」と換言しても事実認識に変化はない。
日本書紀の朝鮮関係資料には混乱偽造があると考えられているため、実に様々な意見が提出されている。
日本書紀における朝鮮半島に対する記述に対しては疑問が指摘されている。
上垣外憲一は、大和の権威を高めるために編纂されたのは周知の事実だが特に朝鮮半島関係の造作は著しいと指摘している。
その背景として日本書紀の編纂が白村江の戦いで新羅に敗れてから間もないため、言葉の上だけでも朝鮮半島に威張りたいという心理があったと指摘する。
山内弘一は大和朝廷が中国から導入した自身を中心とし周辺国を蔑む天下的世界認識や華夷思想によって朝鮮半島の新羅を「蕃国」と位置づけた。
このような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在するため、所詮は主観的な認識の次元だと指摘する。
中国人学者の沈仁安は日本書紀の信頼性を検証した結果、朝鮮の正史である三国史記を以て日本書紀の記述を訂正することは相反しないと指摘する。
鈴木英夫は『日本書紀』編纂時に白村江の敗戦を契機とする八世紀代律令国家の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたという事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の史的構想が成立したと指摘する。
直木孝次郎は何もかも失った大和とは対照的に新羅は唐をも破って朝鮮統一をしてしまったために大和は新羅から先進的な政治体制や文化を学ぶ一方で相当な危機感を持っていた。
こうした危機感から生まれたナショナリズムが、日本書紀編纂の際に形となって表れたと指摘する。
堀敏一は日本書紀が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてが朝貢だと指摘する。
書名
もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。
『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と書かれていることを重視する。
中国では紀伝体の史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。
この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。
『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。
この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。
『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。
例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述が見られる。
初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。
「古記」は天平10年(738年)の成立とされている。
『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。
そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
なお、一部には、『日本紀』と『日本書紀』とは別の書であると考える研究者もいる。
『万葉集』には双方の書名が併用されている。
原資料
日本書紀の資料は記事内容の典拠となった史料と修辞の典拠となった漢籍類(三国志、漢書、後漢書、淮南子等)に分けられる。
さらに史料には以下のようなものが含まれると考えられている。
帝紀
旧辞
諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記)
地方に伝えられた物語(風土記)
政府の記録
個人の手記(『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『高麗沙門道顯日本世記』、(釈日本紀に挙げられている『安斗宿禰智徳日記』、『調連淡海日記』))
寺院の縁起
海外(特に百済)の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』)
その他
なお、『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子によって編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより旧い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに焼失した。
『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。
「一書に曰く」の記述は異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すと言われている。
なお、『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。
但し一部には書名を明らかにしているものがあり、書名をあげて引用されている文献として次のようなものがあるが、いずれも現存しない。
『日本旧記』(雄略天皇21年(477年)3月)
『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年(660年)5月、斉明天皇7年(661年)4月、11月、天智天皇9年(669年)10月)
『伊吉連博徳』(斉明天皇5年(659年)7月、斉明天皇7年(661年)5月)
『難波吉士男人書』(斉明天皇5年(659年)7月)
『百済記』(神功皇后摂政47年(247年)4月、神功皇后摂政62年(250年)2月、応神天皇8年(277年)3月、応神天皇25年(294年)、雄略天皇20年(476年))
『百済新撰』(雄略天皇2年(458年)7月、雄略天皇5年(461年)7月、武烈天皇4年(502年))
『百済本記』(継体天皇3年(509年)2月、継体天皇7年(513年)6月、継体天皇9年(515年)2月、継体天皇25年(531年)12月、欽明天皇5年(544年)3月)
『譜第』(顕宗天皇即位前紀)
『晋起居注』(神功皇后摂政66年(267年))
編纂方針
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。
編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。
文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査がされている。
その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武天皇・持統天皇紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。
その一は、巻三の神武天皇紀から巻十三の允恭天皇・安康天皇紀までである。
その二は、巻十四の雄略天皇紀から巻二十一の用明天皇・崇峻天皇紀まである。
残る巻二十二・二十三の推古天皇・舒明天皇紀はその一に、巻二十四の皇極天皇紀から巻二十七の天智天皇紀まではその二に付加されるとされている。
巻十三と巻十四の間、つまり雄略天皇紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
ところで『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、最近の研究から語彙や語法に倭習が多くみられることが分かってきている。
とくに大化の改新について書かれた巻二十四、巻二十五に倭習が多数ある。
蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向を受けて「加筆」されたのではないかと考える学者もいる。
『日本書紀』は、欽明13年10月()に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずる、としている。
しかし『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は、欽明天皇の戊午年10月12日 (旧暦)(同年が欽明天皇治世下にないため(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。
このように『日本書紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
紀年・暦年の構成
暦日に関する研究は、天文学者の小川清彦 (天文学者)により戦前に既に完成していた。
が、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。
『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。
記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。
たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。
また、小川の研究は、中国の元嘉暦と儀鳳暦の二つが用いられていることを明らかにした。
神武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康天皇紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。
元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。
既述のように二組で撰述したと推測されている。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦である。
元嘉二十二年(445年)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。
儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(天智天皇4年665年)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
讖緯(しんい)の説
神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てている理由は、中国から伝えられた讖緯説を採用したためという学説が、明治に那珂通世(なかみちよ)によりうちたてられ、学界で広く受け入れられている。
三善清行による「革命勘文」(『群書類従』 第貮拾六輯 雜部 所収)で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命の思想によるという。
この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたのである。
異説では、那珂通世の計算には誤認があり、一蔀は「革命勘文」の引用のとおり1320年が正しく従って逆算起点は斉明天皇7年(661年)の辛酉の年になるともいう。
紀年論
古い時代の天皇の寿命が異常に長い事から、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。
今日の学説では、初代神武天皇の即位年を辛酉(紀元前660年)とすることによって、年代を古くに引き上げたとされる。
そこでこの紀年がどのように構成されているか、明らかにしようとする試みが紀年論である。
また応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると、『三国史記』と年次が一致する。
したがってこのあたりで、年次は120年古くに設定されているとされる。
しかしこれも、あくまで『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するものである。
前後の日本伝承による記事には当然適用されるわけではないし、その前の神功紀で引用される『三国志 (歴史書)』の年次との整合性もない。
一方、『古事記』は年次を持たないが、文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。
『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、以下は一致する。
第27代 安閑天皇(乙卯、安閑天皇4年(535年))
第31代 用明天皇(丁未、用明天皇2年(587年))
第32代 崇峻天皇(壬子、崇俊天皇5年(592年))
第33代 推古天皇(戊子、推古天皇36年(628年))
このあたりの年次は実年代を反映しているとも考えられる。
また『古事記』の天皇崩御年干支を基に、『日本書紀』の年次を探ろうとする考えもあるが、前述の理由により多くの学者の支持を得られていない。
本文と一書
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。
中国では、清の時代になるまで本文中に異説を併記した歴史書はなかった。
当時の常識では、世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。
あるいは、それゆえに現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。
なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において皇妃・皇子に付いて本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。
この部分の記述がどの程度事実を反映しているのかは不明である。
が、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が現在見られる日本書紀全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
系図1巻
続日本紀にある日本書紀の完成記事には「紀卅卷系圖一卷」とある。
成立時の日本書紀には現在伝えられている30巻の他に系図1巻が存在したと考えられている。
日本書紀の「紀卅卷」が現在までほぼ完全に伝わっているのに対して系図は全く伝わっていない。
弘仁私記にはこの系図について、「図書寮にも民間にも見えない」としてすでに失われたかのような記述がある。
が、鎌倉時代に存在する書物を集めた記録では「舎人親王撰 帝王系図一巻」とあり、このころまでは存在したとも考えられる。
「新撰姓氏禄」には、ところどころ「日本紀合」という記述があるが、これは失われた系図部分と照合したものであると考えられている。
この「系図一巻」がどのような内容を持っていたのかについては様々に推測されている。
例えば日本書紀には初出の人物についてはその系譜を期すのが通例であるにも関わらずこれらの無い人物が若干存在する。
これらについては系図に記載があるために記載を譲ったためであると考えられている。
また、記紀ともに現存の本文には見えない応神天皇から継体天皇に至る系譜についてもこの失われた「系図1巻」には書かれていたのではないかとする説がある。
太歳(大歳)記事
日本書紀には各天皇の即位の年の末尾に「この年大歳(大歳)」としてその年の干支を記した記事があり、「大歳(大歳)記事」と呼ばれている。
日本書紀が参考にした中国の史書にも「続日本紀」などのこれ以後の日本の史書にもこのような記事は無い。
この記事がどのような意味合いを持つものなのかは不明である。
ほとんどの天皇については即位元年の末尾にこの大歳記事があるが、以下のようにいくつか例外が存在する。
このような例外が存在する理由についてはさまざまな推測がなされている。
中には皇統譜が書き換えられた痕跡ではないかとする見解もあるが、広い賛同は得ていない。
神武天皇については東征を始めた年にあり、即位元年にはない。
綏靖天皇については即位前紀の神武天皇崩御の年と自身の即位元年にある。
神功皇后については摂政元年、摂政十三年、摂政六九年にある。
継体天皇については元年と二五年にある。
天武天皇については元年にはなく二年にある。
諱と諡
天皇の名には、天皇在世中の名である諱(いみな)と、没後に奉られる諡(おくりな)とがある。
現在普通に使用されるのは『続日本紀』に記述される奈良時代、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)、淡海三船による神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇へ一括撰進された漢風諡号である。
が、『日本書紀』の本来の原文には当然漢風諡号はなく、天皇の名は諱または和風諡号によってあらわされている。
15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、おおむね諱、つまり在世中の名であると考えられている。
その特徴は、ホムタ・ハツセなどの地名、ササギなどの動物名、シラカ・ミツハなどの人体に関する語、ワカ・タケなどの素朴な称、ワケ・スクネなどの古い尊称などを要素として単純な組み合わせから成っている。
構成
卷第一
神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話(天地開闢 (日本神話))
第二段、世界起源神話の続き
第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ)
第四段、国産みの話
第五段、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み)
第六段、イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前に天照大神に会いに行く。
アマテラスはスサノオとうけいし、互いに相手の持ち物から子を産む。
(アマテラスとスサノオの誓約)
第七段、スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。
神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。
スサノオは罪を償った上で放たれる。
(岩戸隠れ)
第八段、スサノオが古代出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。
スサノオがクシイナダヒメを救うため八岐大蛇を殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。
姫と結婚し、大国主を産み、スサノオは根の国に行った。
卷第二
神代下(かみのよのしものまき)
第九段、葦原中国の平定、オオナムチ父子の国譲り、ニニギの降臨、サルタヒコの導き、ホオリらの誕生。
(葦原中国平定・天孫降臨)
第十段、山幸彦と海幸彦の話
第十一段、神日本盤余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)誕生
※卷第三より以降の漢風諡号は、『日本書紀』成立時にはなく、その後の人が付け加えたものと推定されている。
卷第三
神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇
卷第四
神淳名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)綏靖天皇
磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)安寧天皇
大日本彦紹友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)懿徳天皇
観松彦香殖稲天皇(みまつひこすきとものすめらみこと)孝昭天皇
日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)孝安天皇
大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)孝霊天皇
大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)孝元天皇
稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)開化天皇
卷第五
御間城入彦五十塑殖天皇(みまきいりびこいにゑのすめらみこと)崇神天皇
卷第六
活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)垂仁天皇
卷第七
大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)景行天皇
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇
卷第八
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
卷第九
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
卷第十
誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇
卷第十一
大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇
卷第十二
去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)履中天皇
瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇
卷第十三
雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)允恭天皇
穴穂天皇(あなほのすめらみこと)安康天皇
卷第十四
大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
第第十五
白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)清寧天皇
弘計天皇(をけのすめらみこと)顕宗天皇
億計天皇(おけのすめらの天皇)仁賢天皇
卷第十六
小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
卷第十七
男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
卷第十八
広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)安閑天皇
武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)宣化天皇
卷第十九
天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
卷第二十
淳中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇
卷第二十一
橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)用明天皇
泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)崇峻天皇
卷第二十二
豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)推古天皇
卷第二十三
長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇
卷第二十四
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらのみこと)皇極天皇
卷第二十五
天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇
卷第二十六
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)皇極天皇
卷第二十七
天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)天智天皇
卷第二十八
天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのかみのまき)天武天皇 上
卷第二十九
天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき)天武天皇 下
卷第三十
高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)持統天皇
現存本
現存する最古のものは平安極初期のもの(田中本第10巻ならびにその僚巻に相当する巻1断簡)。
写本は古本系統と卜部家系統の本に分類される。
(この他に「伊勢系」を分けて考える説もある)
神代巻(巻第一・第二)の一書が小書双行になっているものが古本系統である。
大書一段下げになっているものが卜部家系統である。
原本では古本系統諸本と同じく小書双行であったと考えられている。
以下に国宝や重要文化財に指定されているものをいくつかあげる。
古本系統
佐佐木本 9世紀写 第1巻断簡
四天王寺本・猪熊本・田中本の僚巻。
紙背には空海の漢詩を集めた『遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)』(真済編)が記されている。
訓点なし。
個人蔵。
四天王寺本 9世紀写 第1巻断簡
- 佐佐木本・猪熊本・田中本の僚巻。
紙背文書については佐佐木本と同じ。
訓点なし。
四天王寺蔵。
猪熊本 9世紀写 第1巻断簡
- 佐佐木本・四天王寺本・田中本の僚巻。
紙背文書については佐佐木本と同じ。
訓点なし。
個人蔵。
田中本 9世紀写 第10巻
- 佐佐木本・四天王寺本・猪熊本の僚巻。
紙背文書については佐佐木本と同じ。
訓点なし。
奈良国立博物館蔵。
岩崎本 10~11世紀写 第22,24巻
- 訓点付きのものとしては最古。
本文の声点は六声体系。
図書寮本と比較すると、本文・訓点ともに相違は大きい。
京都国立博物館蔵。
前田本 11世紀写 第11,14,17,20巻
- 訓点は図書寮本と同系統であるが、多少古態を存する。
声点は四声体系。
前田育徳会蔵。
図書寮本(書陵部本) 12世紀写 第10,12-17,21-24巻
- 訓点あり(第10巻を除く)。
第14巻と第17巻は前田本と、第22~24巻は北野本と、それぞれ同系統。
声点は四声体系。
宮内庁書陵部蔵。
北野本 第1類…第22-27巻(平安末期写)
- 訓点あり。
鎌倉末~南北朝期に神祇伯であった白川伯王家・資継王の所蔵本が、室町中期に吉田家系の卜部兼永の所有となったもの。
北野天満宮蔵。
鴨脚本(嘉禎本) 1236年写 第2巻
- 訓点あり。
京都・賀茂御祖神社の社家・鴨脚(いちょう)氏旧蔵本。
本文・訓点とも大江家系か。
國學院大學蔵。
卜部家本系統
卜部兼方本(弘安本) 1286年写 第1,2巻
- 訓点あり。
平野家系の卜部兼方の書写。
大江氏点との比較を丹念に記す。
声点は四声体系。
京都国立博物館蔵。
卜部兼夏本(乾元本) 1303年写 第1,2巻
- 訓点あり。
吉田家系の卜部兼夏の書写。
『弘仁私記』(書紀古訓と書紀講筵にて後述)その他の私記を多数引用。
声点は四声体系。
天理大学附属天理図書館蔵。
熱田本 1375~7年写 第1~10,12~15巻
- 訓点あり。
熱田神宮蔵。
図書寮本(書陵部本) 1346年写 第2巻
- 訓点あり。
北畠親房旧蔵本。
宮内庁書陵部蔵。
北野本 第2類…第28-30巻(平安末~鎌倉初期写)、第3類…第1,4,5,7-10,12,13,15,17-21巻(南北朝写)、第4類…第3,6,11巻(室町後期写)、第5類…第16巻(幕末写)
- 訓点あり(第1巻を除く)。
第2・3類は第1類同様白川伯王家・資継王の旧蔵本。
資継王が加点しているため、本文とは異なり訓点は伯家点系である。
北野天満宮蔵。
卜部兼右本 1540年写 第3~30巻 - 1525年に吉田家前当主の卜部兼満が家に火を放って出奔した際に卜部家伝来の本も焼失した。
このため、若くしてその後を継いだ兼右が、以前に卜部家本を書写していた三条西実隆の本を書写させてもらい、更に一条家の本(一条兼良写、卜部兼煕証)で校合して証本としたもの。
当初は全巻揃っていたが、神代巻2巻は再度失われた。
人代巻28巻を完備したものとしては最古に位置する。
書紀講筵と書紀古訓
『日本書紀』は歌謡部分を除き、原則として純粋漢文で記されているため、そのままでは日本人にとっては至極読みづらいものであった。
そこで、完成の翌年である養老5年(721年)には早くも、『日本書紀』を自然な日本語で読むべく、宮中において時の博士が貴族たちの前で講義するという機会が公的に設けられた。
これを書紀講筵(こうえん)という。
開講から終講までに数年を要するほどの長期講座であった。
承平年間に行なわれた講筵などは、天慶の動乱のために一時中断したとは言え、終講までに実に7年を要している。
代々の講筵の記録は聴講者の手によって開催された年次を冠する私記(年次私記)の形でまとめられるとともに、『日本書紀』の古写本の訓点(書紀古訓)として取り入れられた。
以下に過去の書紀講筵(年次は開講の時期)の概要を示す。
養老五年(721年)
博士は太安万侶。
私記は現存しないが、現存『弘仁私記』および一部の書紀古写本に「養老説」として引用の形で見える。
弘仁四年(813年)
博士は多人長。
唯一、成書の形で私記が現存する(いわゆる私記甲本)。
が、書紀古写本(乾元本神代紀)に「弘仁説」として引用されている『弘仁私記』(和訓が万葉仮名で表記され上代特殊仮名遣も正確)と比べると、現在の伝本(和訓の大半が片仮名表記)は書写の過程ではなはだしく劣化したものであり、原型をとどめていないと見られる。
承和六年(839年)
博士は菅野高平(滋野貞主とも)。
私記は現存しない。
元慶二年(878年)
博士は善淵愛成。
私記は現存しないが、卜部兼方の『釈日本紀』に「私記」として引用されているのはこれではないかと言われている。
私記作者は矢田部名実か。
延喜四年(904年)
博士は藤原春海。
私記作者は矢田部公望。
私記は現存しないが、『和名類聚抄』に「日本紀私記」として、また卜部兼方の『釈日本紀』に「公望私記」として、それぞれ引用されている。
承平六年(936年)
博士は矢田部公望。
現在断片として伝わっている私記丁本がその私記であると推測されている。
康保二年(965年)
博士は橘仲遠。
私記は現存しない。
なお、書紀古写本には単に「私記説」という形で引用されているものも多い。
これらは上記年次私記のいずれかに由来するものと思われるが、残念ながら特定はできない。
その他にも、書紀古写本に見られる声点付きの傍訓は何らかの由緒ある説に基づくものと見られる。
このため、上記私記の末裔である可能性がある。
ちなみに、現在成書の形で存在する『日本紀私記』には、上述した甲本・丁本の他に、僚巻と見られる乙本(神代紀に相当)と丙本(人代紀に相当)の二種類が存する。
が、こちらはある未知の書紀古写本から傍訓のみを抜き出し、適宜片仮名を万葉仮名に書き換えてそれらしく装ったもの(時期は院政~鎌倉期か)と推定されており、いわゆる年次私記の直接の末裔ではない。
竟宴和歌
元慶の講筵以降、終講の際にはそれを記念する宴会(竟宴)が行なわれるようになり、参加者によって『日本書紀』にちなむ和歌が詠まれた。
それらを集めたものが『日本紀竟宴和歌(にほんぎきょうえんわか)』(天慶6年(943年)成立)である。
現存本は元慶・延喜・承平の各講筵の竟宴和歌より成る。
歌題として選ばれるのが神々や古代の聖王、伝説的な英雄たちということもあって、和歌の内容がどうしても類型的なものになりがちである。
このため、文学的には特に見るべきものはない。
が、藤原時平や藤原忠平といった当代の最上級の貴族の歌を集めているという点ですこぶるユニークな歌集となっている。