河内本 (Kawachibon)

河内本(かわちぼん)とは、源氏物語の写本のうち、大監物源光行とその子源親行が作成したとされるものおよびそれを写して作成されたとされるものをいう。
「河内本」という呼び名は光行・親行がともに河内守を歴任していることに由来する。

概要
源光行とその子源親行が協力して、当時乱れに乱れていた源氏物語の本文を正すために、その当時伝来していた21部の源氏物語の古写本を集めた。
「数度の校合」と「重校」によって「殆散千万端之蒙(疑問を解消することが出来た)」として源光行の没後、源光行によって2月3日に始められ、源親行によって7月7日に一旦これを完成させたとされるものである。
集められた古写本の中で源光行がもともと持っていた写本と以下の7つの写本を特に重要視していたとされる。

藤原伊房本
藤原朝隆本
源俊房本
源麗子本
藤原忠通本
藤原俊成本
藤原定家本
この本は源光行の没後、源親行によってほぼ完成され、定本として家に伝えたとされることになったが、その後も親行の子源義行、孫源友行等が代々加筆して伝えたとされている。
源光行・源親行がともに河内守を歴任しているため河内本の名称が冠せられている。
鎌倉時代から室町時代前期にかけて重んぜられ、その後も大きな影響力を持った本文である。
この「河内本」を書写した諸本の系統を「河内本系」と呼ぶ。

特色
校勘に校勘を重ねて「殆散千万端之蒙」にいたったとされる。
つまり河内本とは、もともとあった本文に積極的に手を加えて新たに作り出された意味の通りやすい混成本文であったとみられる。
河内本は南北朝期・室町初期までは青表紙本よりもむしろ盛んに用いられていたが、室町中期、宗祇・三条西実隆の頃から、定家の青表紙本を尊重すべきことが強調された。
それ以後河内本は研究者の目にほとんど触れなくなり、近代まで世に埋もれてしまうこととなった。
しかしながら河内本衰退後に有力になった青表紙本や青表紙本の系統に属するとされる絵入源氏物語や湖月抄などの江戸時代の版本の本文は河内本の影響を大きく受けていると見られる。

これは、青表紙本にはしばしば意味の通らない箇所や別の部分の記述と矛盾するように見える記述があり、該当部分の河内本を見ると意味が通るような記述になっていることが多いために、河内本にそって青表紙本に訂正を加えることがあったからだと見られる。
最も良質な青表紙本の写本であると言われている大島本でも本来の本文に対して河内本に基づくと見られる多くの訂正の跡を確認することができる。

主要な写本
主要な写本として以下のような写本があり、そのうちのいくつかは複製(影印)刊行されている
尾州家本
5月に北条実時が出来上がったばかりの源親行所有の河内本原本を借用して能筆家に書写させ金沢文庫に入れたものとされている。
河内本として成立年次の最も古い写本である(一部後世に補写された巻がある)。
室町時代の所在は不明であるが、関白豊臣秀次の所有となった後徳川家康のものになり、、徳川家康の死去に伴い第九子の徳川義直に「駿河御譲本」と呼ばれた約3,000冊の蔵書の一つとして分与され尾張徳川家のものとなった。
1931年、尾張徳川家から第19代当主の徳川義親によって設立された徳川黎明会に管理が移り、1950年に名古屋市に管理が移り名古屋市蓬左文庫の管理となった。
現在国の重要文化財に指定されている。

東山御文庫本
後醍醐天皇、足利尊氏、二条為明、慶雲、浄弁、吉田兼好、頓阿の七人の筆になるとされることから『七毫源氏』とも呼ばれる。

高松宮家本
旧高松宮家所蔵本。
現在は国立歴史民族博物館所蔵。

中山家本
平瀬本
近代に入って行われた源氏物語の写本調査の中でに山脇毅によって良質な河内本の写本として初めて発見された写本。
旧平瀬家所蔵。
現在は文化庁蔵。

大島本
青表紙本の大島本とは別の古写本である。

校本

校異を収録した本として、次のようなものがある。

『源氏物語大成 校異篇』池田亀鑑編(中央公論社、1953年〜)
『河内本源氏物語校異集成』加藤洋介編(風間書房、2001年)ISBN 4-7599-1260-6

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