舎人親王 (Imperial Prince Toneri)

舎人親王(とねりしんのう、天武天皇4年1月5日 (旧暦)(676年1月28日) - 天平7年11月14日 (旧暦)(735年12月6日))は天武天皇皇子。
諡は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。
淳仁天皇の父である。
奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるった。
日本書紀の編集も総裁した。
舎人皇子(とねりのみこ)とも言う。

出自

天武天皇4年1月5日生まれ。
父は天武天皇、母は天智天皇皇女新田部皇女である。
妻は当麻山背。
子に三原王、三島王、船王、池田王、守部王、御浦王、大炊王(後の淳仁天皇)などがいる。
疫病に倒れたとは言え、天武天皇の皇子のなかで最後まで生き残り、長命を得た人物である。
三原王の孫に清原夏野、また、子孫に清原深養父・清少納言がいる。
清原氏は高市皇子・長屋王系列の高階氏共々天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。

事績

養老2年(718年)、一品の位階に昇叙され、翌養老3年には元正天皇より異母弟の新田部親王と共に皇太子首皇子の補佐を命じられた。

養老4年(720年)5月には『日本書紀』を奏上している。
同年8月、実力者であった右大臣藤原不比等薨去に伴い知太政官事に就任、右大臣(後、左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する。

神亀1年(724年)聖武天皇(首皇子)即位に際し、封500戸を加えられている。
舎人皇子は次第に藤原氏寄りに傾斜し、天平1年(729年)2月に起こった長屋王の変では新田部親王と共に長屋王を糾問し、自害せしめた。

同年8月には藤原氏出身の光明皇后の立后を宣言するなど藤原四兄弟政権の成立に協力した。

天平7年(735年)11月14日、天然痘が蔓延する平城京で60歳の生涯を閉じ、太政大臣を贈位される。

天平宝字3年(759年)、大炊王が淳仁天皇として即位するに及び、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号された。

墓所は、奈良県奈良市田中町にある黄金塚陵墓参考地が候補地とされていたが、2009年2月の発掘調査により、別人のものと判明した。

血縁

父:天武天皇
母:新田部皇女(父:天智天皇)

大夫人:当麻山背(父:当麻老)

子女
三原王(? - 752)
三島王(? - ?)
船王(? - ?)
池田王(? - ?)
守部王(? - ?)
御浦王(? - ?)
大炊王(淳仁天皇)(733 - 765)
室女王(? - 759)
飛鳥田女王(? - 782)

歌人

万葉集に3首の歌が残る歌人でもある。
また、柿本人麻呂歌集に、親王に献上された5首の歌が残されており、交流の跡が偲ばれる。
また、賞金をかけておもしろい歌を作れといった題詞もあり、文雅を愛するひとであったと思われる。

親王の歌を一首を紹介する。

ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに (巻9)

[English Translation]