藤原公任 (FUJIWARA no Kinto)

藤原 公任(ふじわら の きんとう、康保3年(966年) - 長久2年1月1日 (旧暦)(1041年2月4日))は、平安時代中期の公卿・歌人。
正二位権大納言。

経歴

父は関白太政大臣藤原頼忠、祖父は関白太政大臣藤原実頼、曾祖父は関白太政大臣藤原忠平(貞信公)、母は醍醐天皇の孫、厳子女王。
妻は昭平親王の娘(関白藤原道兼養女)。
また、いとこに具平親王、右大臣藤原実資、書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。

和歌の他、漢詩、管弦にもすぐれた才能を見せ、有職故実に通じていたが、政治的には藤原道長におされ、正二位権大納言にとどまった。
道長に対して、自らの才能を誇示した「三舟の才」のエピソードは、芸術面での意地を見せたともいえる。

家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は彼の撰による。
また引退後著したと見られる有職故実書『北山抄』は摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる貴重な史料である。

逸話
三舟の才
『大鏡』に見えるエピソード。
道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」と詠んで賞賛された。
ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、すべての分野で認められているとうぬぼれてしまったと述懐した。
三船の才ともいう。

着鈦勘文
この時代、強盗・窃盗・私鋳銭の3つの罪については検非違使が裁判を行うことになっていたが、長徳2年(996年)11月に検非違使の最高責任者であった検非違使庁別当である公任の別当宣によって、初めて着鈦勘文(判決文)に徒罪(懲役)年数が書かれることになった。
それまでは、被害額の総額に応じて徒の年数は定められていたものの、その年数が罪人に示されることは無く、罪人は釈放されて初めて自分がどんな刑罰を受けたのかを知ったという。
公任はその矛盾を指摘してこれを改めさせた。
この時、左衛門志であった明法家(法律家)の惟宗允亮は、公任の意向に沿って素晴らしい着鈦勘文を書き上げ、法律家としての名声を高めたという。

代表歌

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ

[English Translation]