藤原忠平 (FUJIWARA no Tadahira)
藤原忠平(ふじわらの ただひら 元慶4年(880年) - 天暦3年8月14日 (旧暦)(949年9月14日))は、平安時代の公卿。
藤原基経の四男。
母は操子女王。
兄弟に藤原時平、藤原仲平など。
子に藤原実頼、藤原師輔など。
小一条太政大臣と号す。
兄時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。
朱雀天皇のときに摂政、次いで関白に任じられる。
以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。
兄時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。
平将門は彼の家人として仕えていた時期もあった。
生涯
寛平年間(889年-898年)に従五位下に叙し、侍従に任じられ、肥後国受領を兼ねる。
昌泰3年(900年)参議に任じられるが奏請して、叔父の藤原清経と代わり、自らは右大弁となる。
延喜の初めに春宮大夫、左兵衛督を兼ね、検非違使別当に補され、次いで従三位に叙し、中納言に任じられ、蔵人所別当に補され、右近衛大将を兼ねる。
宇多天皇の時代は寛平の治と呼ばれ、摂関を置かずに天皇が親政をし、長兄の時平と学者の菅原道真らが政治を主導した。
寛平9年(897年)に宇多天皇が譲位して醍醐天皇が即位すると、時平は左大臣、道真は右大臣に並んで朝政を執ったが、やがて政争が起き道真は失脚する(昌泰の変)。
時平が政権を握り、諸改革に着手するが、延喜9年(909年)、時平は39歳で早世した。
次兄の仲平を差し置いて、忠平が藤氏長者として嫡家を継ぐ。
以後、醍醐天皇のもと出世を重ね、大納言に転じ、左近衛大将を兼ねる。
延喜14年(914年)右大臣を拝した。
延長 (元号)2年(924年)正二位に叙し、左大臣となる。
延長5年(927年)、時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。
農政等実施した忠平の政策は、兄時平の行った国政改革と合わせ「延喜の治」と呼ばれる。
延長8年(930年)に朱雀天皇(姉の藤原穏子の子)が即位すると、基経の没後は長く摂政関白が置かれなかったが新帝が幼少であるため摂政に任じられた。
承平 (日本)2年(932年)従一位に叙せられる。
承平6年(936年)太政大臣に昇り、天慶2年(939年)准三后となる。
天慶4年(941年)朱雀天皇が元服しため摂政を辞すが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられた。
この間かっての家人、平将門と遠戚である藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。
天慶9年(946年)村上天皇が即位すると引き続き関白として朝政を執った。
この頃には老齢して病がちになり、しばしば致仕(引退)を願うが、その都度慰留されている。
天暦3年(949年)、病がいよいよ重くなり、死去した。
享年70。
正一位が追贈され、貞信公と諡された。
妻・源順子は宇多天皇の皇女(養女とする説もある)であり、宇多天皇側近であった菅原道真とも親交があった(順子が道真の姪であった可能性がある。詳細は源順子を参照のこと)ために、宇多天皇や道真と対立していた長兄・時平からは疎んじられていたという説がある。
逆に兄・時平や共に道真を陥れた源光 (公卿)が亡くなり、醍醐天皇が病気がちとなり、天皇の父である宇多法皇が再び国政に関与するようになると、忠平は法皇の相談役として急速な出世を遂げたと言う。
実際前述の2人の死により、早くも35歳にして臣下最高位となり、死去するまで35年間その地位を維持したが、当時としては長寿を全うした事で忠平とその子孫は時平に代わって嫡流となり、摂関職を明治時代開幕まで継承することとなった。
そして、道真の名誉回復が早い時期に実現したのも「道真怨霊説」だけでなく、亡き時平と忠平との確執が背景にあったと言われている。
人物・逸話
幼くして聡明で知られ、父の基経が極楽寺を建てたとき、忠平は「仏閣を建てるならばこの地しかありません」と一所を指さした。
そこの地相はまさに絶勝の地だった。
基経はこの時のことを心にとどめたという(『大鏡』)。
また、醍醐天皇の頃、相工(人相占い師)が宮中に召された。
寛明太子(後の朱雀天皇)を見て「容貌美に過ぎたり」と判じた。
時平を見て「知恵が多すぎる」と判じた。
菅原道真を見て「才能が高すぎる」と判じ、皆全幅の者はなかった。
ところが、下座にあった忠平を見て、相工はこれを指さして「神識才貌、全てが良い。長く朝廷に仕えて、栄貴を保つのはこの人であろう」と絶賛した。
宇多法皇はかねてから忠平を好んでいたが、この話を聞いて、ますます重んじ、皇女(源順子)を降嫁せしめたという(『古事談』)。
忠平はまた、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったという(『栄花物語』)。
朝儀、有職故実について記した日記『貞信公記』がある。