近松門左衛門 (CHIKAMATSU Monzaemon)
近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、近松門左衞門、承応2年(1653年) - 享保9年11月22日 (旧暦)(1725年1月6日))は江戸時代前期の元禄期に活躍した歌舞伎・浄瑠璃の作者である。
本名は杉森 信盛。
生まれは越前国または周防国、長門国といわれる。
竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。
『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。
100作以上の浄瑠璃を書いた。
そのうち約20曲が世話物、残りが時代物であった。
世話物とは、町人社会の義理や人情をテーマとした作品である。
しかし、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』である。
『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
同時期に紀海音も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実である。
しかし、世話物中心に門左衛門の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。
また、門左衛門は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれる。
しかし、これは穂積以貫が記録した『難波土産』に門左衛門の語として書かれているだけであり、門左衛門自身が書き残した芸能論はない。
忌日の11月22日(明治以降は新暦で行われる)は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語である。
箕面市の瀧安寺において同寺に寄進した大般若経が発見された。
生涯
門左衛門は、松平昌親に仕える越前藩士・杉森信義と医者の家系である岡本為竹法眼の娘・喜里の間に生まれた。
出生地については越前説と長門国萩市(もともと杉椙氏は毛利氏家臣の系統である)が有力な説となっているが、肥前国唐津市、淀藩説など他にも諸説がある。
幼名は次郎吉。
諱は信盛。
弟の伊恒は後に医者となり、岡本一抱(為竹)と名乗っている。
門左衛門自身についても、摂津国尼崎市の広済寺に自筆と伝えられる養生訓が伝わっている。
父・信義が浪人し、近松は共に京都へと移り住む。
ここから先は、山岡元隣『宝蔵』(寛文11年 (1671))に両親等とともに門左衛門の一句が収められている他はしばらく伝記が途絶える。
延宝、天和 (日本)頃より浄瑠璃の宇治加賀掾や歌舞伎の坂田藤十郎等のための作品を書いた。
しかしこの当時の、作品に作者の名を出さない慣習から、近松作品は特定されていない。
天和3年 (1683)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が宇治座で上演された。
翌年竹本義太夫が竹本座を作ってこれを演じると大好評を受けた。
門左衛門の浄瑠璃作者としての地位が確立される。
その後も義太夫と組んで名作を次々に発表し、貞享3年 (1686)、竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として近松門左衛門と記載した。
元禄16年 (1703)、『曽根崎心中』を発表。
宝永2年 (1705) に竹本座の座元が竹田出雲に替わっての顔見世興行『用明天王職人鑑』。
これからは座付作者となり、住居も大坂に移って浄瑠璃の新作に専念した。
正徳 (日本)4年 (1714) には尼崎の広済寺再興の折りに、本願人として尽力した。
正徳5年 (1715) の時代物『国性爺合戦』は、10月から竹本座にて17ヶ月の連続公演となる人気を博す。
享保元年 (1716) に母の喜里が死去。
門左衛門の家族は妻と3人の息子がおり、次男と三男は浄瑠璃関係の仕事に就いている。
享保8年 (1724) に、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。
心中物は大変庶民の共感を呼び、人気を博したが、こうした作品の真似をして心中をする者が続出するようになったためである。
その翌年の享保9年(1725年)11月、門左衛門は72歳で没する。
辞世の歌「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして」。
主な作品
『近松全集』は岩波書店全16巻などがあり、勉誠社でも刊行。
浄瑠璃
貞享2年 (1685) 『出世景清』
元禄16年 (1703) 『曽根崎心中』
正徳 (日本)元年 (1711) 『冥途の飛脚』
正徳5年 (1715) 『国性爺合戦』
享保4年 (1719) 『平家女護島』
享保5年 (1720) 『心中天網島』
享保6年 (1721) 『女殺油地獄』
歌舞伎
『けいせい仏の原』