二条院讃岐 (Nijoin no Sanuki)
二条院讃岐(にじょういん の さぬき、永治元年(1141年)頃? - 建保5年(1217年)頃?)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての女流歌人。
内讃岐、中宮讃岐とも称される。
父は源頼政、母は源斉頼の娘。
二条天皇(二条院)に仕え、天皇が崩御した後、藤原重頼と結婚している。
その頃には歌人として評判を得ており「歌仙落書」に入っている。
建久元年(1190年)頃、後鳥羽天皇の中宮九条任子(宜秋門院)に再出仕したが、後に出家。
隠棲後も後鳥羽上皇、順徳天皇の歌壇に迎えられている。
「正治二年初度百首」「千五百番歌合」に歌が乗せられている。
家集に『二条院讃岐集』がある。
『小倉百人一首』から
わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らぬ 乾く間もなし
「沖の石の讃岐」はこの歌によりつけられた異名である。
「世にふる」の系譜
二条院讃岐の下記の歌は延々と続く本歌取りのもととなった。
世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨かな
これは「世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだわ。
そんな思いで冬の夜を過ごしていたら、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。
辛い思いをしている人の家の上を、なんとまあやすやすと過ぎてゆく雨だこと。」という意味である。
「恋愛に鬱屈しているところへ、恋人は訪れず代りにしぐれの雨が過ぎていった。
という恋歌の風情を纏綿させている、『ふる』の使いわけに、歌の中心がある」
というのは、浅い読みで、人事と自然の対比にこそ「歌の中心」があると言うべき。という。
後続の歌
まぱらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん
- 藤原俊成『千載集』
さゆる夜の槙の板屋のひとり寝に心くだけと霰ふるなり
- 九条良経『千載集』
この二条院讃岐の歌は、さまざまな連歌・俳諧に取り入れられていった。
世々ふるもさらに時雨のやどり哉
- 後村上天皇
雲はなほ定めある世のしぐれかな
- 心敬
世にふるもさらに時雨のやどりかな
- 宗祇
時雨の身いはゞ髭ある宗祇かな
- 素堂
世にふるも更に宗祇のやどり哉
- 芭蕉
世にふるもさらに祇空のやどりかな
- 淡々
世にふるはさらにはせをの時雨哉
- 井上士朗
時雨るゝや吾も古人の夜に似たる
- 蕪村