女学雑誌 (Jogaku Zasshi (Education of Women Magazine))
女学雑誌(じょがくざっし)は明治時代に出版された女性向けの雑誌。
1885年7月号から1904年2月号まで、526号が発行された。
創刊当初は月2回の発行であったが、半年後には月3回となり、1887年からは週刊で発行となったものの、最終的には月刊となった。
概要
近藤賢三を編集人、大庭宗吉を発行人として、1885年7月20日に万春堂から刊行された。
10号までの発行元は万春堂であったが、翌年の近藤の死去によって巌本善治が編集人となり、11号以降は発行元が女学雑誌社へと移る。
なお、1903年の442号以降は青柳有美が編集人となった。
啓蒙書としての出発
「欧米の女権と吾国従来の女徳とを合せて完全の模範を作り為さん」と発行の主旨に掲げたように、女性の啓蒙を目的とし、キリスト教の立場から女性の地位の向上と権利の拡大を目指した。
初期は巌本に加え、内村鑑三や植村正久や成瀬仁蔵などの、キリスト教の立場から論じる人々による女子教育論が発表され、廃娼運動を主張する中心的存在となった。
しかし、次第に文芸的な内容へ傾き、石橋忍月や北村透谷や平田禿木や山田美妙、内田不知庵や磯貝雲峯や星野天知などの文筆家陣によって執筆されることとなる。
なお、中島湘煙や三宅花圃なども寄稿している。
子供のはなし
当時の主宰であった巌本は、読者対象とする母親の子育てを重視すると共に児童の人格を認め、母親が子供に語るために適した話の材料を提供することをねらいとして、1888年の第9号からは「子供のはなし」欄を設けた。
後に「小供欄」と表記が変わり、1889年の第160号からは「児籃」と改題された。
その中心となって活躍したのが若松賤子で、227号から45回に渡って連載した『小公子』は後の翻訳児童文学に大きな影響を与えた。
この試みは、『基督教新聞』にて「子児之話」欄が創設されたことや、その以前から発行されていた、家庭向けの小冊子『喜の音(よろこびのおとずれ)』に影響を受けたものとされている。
雑誌の性質上、娯楽性には欠けていたものの、イソップ寓話やグリム童話やハンス・クリスチャン・アンデルセンなど、外国文学の翻案も紹介された。
赤表紙・白表紙
やがて、従来対象としていた主婦層に加え、青年男女層の読者層を抱えることとなり、保守的とされる主婦層と、新進的とされる青年男女層双方の支持を得るために刷新が繰り返された。
1892年の320号からは赤表紙版と称される「甲の巻」と、白表紙版と称される「乙の巻」へと分離し、それぞれ同一号数のものが隔週で発行された。
青年男女層を対象とする「甲の巻」に対し、「乙の巻」は主婦層を対象とし、「児鑑」もこの版に掲載されることとなった。
1893年4月には「甲の巻」が『評論』と改題され、「乙の巻」が『女学雑誌』として隔週ごとに発行された。
後に、北村や平田は文学の自立を掲げて巌本から離れ、『文學界』を創刊することとなる。
やがて週刊から月刊へ変わると、子供への作品の提供をねらいとする「児籃」などのような欄はなくなった。
終刊および終刊以後
日露戦争が開戦となった直後の1904年2月に、予告のないまま終刊となった。
なお、臨川書店から復刻版が2回に渡って発刊されている。