弓削皇子 (Yuge no Miko (Prince Yuge))

弓削皇子(ゆげのみこ、生年不明 - 文武天皇3年7月21日 (旧暦)(699年8月21日))は天武天皇の第9皇子(第6皇子とも)。
母は、天智天皇皇女の大江皇女。
長皇子は同母兄。

上記のとおり生年は不詳だが、寺西貞弘らによって天武2年(673)誕生と推測されている。
この推定にしたがえば、27歳での死去。
この推定は大宝律令の蔭位の制によって算出されたもので、それほど外れてはいないと思われる。

政治的な事績はほとんどないが、高市皇子没後の後継者選定会議で発言しようとして、葛野王に叱責された(『懐風藻』)ことは有名。
同母兄である長皇子を推薦しようとしたのだと推測されている(直木孝次郎)。
文武3年、母や兄に先立って死去。
『万葉集』には8首の歌が収録されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多。
異母姉妹の紀皇女を思って作った歌、額田王との問答歌などがある。
また、それとは別に柿本人麻呂歌集にこの皇子に献上された歌が5首残されており、交流の跡が偲ばれる。
他の歌人とも交流があり、歌を好んだ皇子であったようである。
なお、神田秀夫によって『万葉集』の編者のひとりに擬せられているが、現在では支持するひとはほとんどない。

梅原猛著『黄泉の王』では、高松塚古墳の被葬者に比定されている。
また、同書では万葉集を根拠に文武天皇の皇后であった紀皇女と密通し、それが原因で持統天皇によって処断されたとの仮説を述べている。
後世の俗書では弓削道鏡との血縁であるなどの伝説もあるが、もちろん証拠はない。

弓削皇子に関する歌

万葉集巻第2 119~122番(弓削皇子が紀皇女を思う歌)
吉野川行く瀬の早みしましくも 淀むことなくありこせぬかも
我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の 咲きて散りぬる花にあらましを
夕さらば潮満ち来なむ住吉の 浅香の浦に玉藻刈りてな
大船の泊つる泊まりのたゆたひに 物思い痩せぬ人の児故に

万葉集巻第3 390番(紀皇女の歌)
軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに 玉藻の上にひとり寝なくに

血縁

父:天武天皇
母:大江皇女(父:天智天皇)
同母兄:長皇子

[English Translation]