播磨稲日大郎姫 (Harima no Inabi no Oiratsume)
播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、生年不詳 - 景行天皇52年5月4日 (旧暦)(122年6月25日))は、『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に記される第12代景行天皇の皇后。
日本武尊(ヤマトタケル)の母。
針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも。
古典の記述
古事記
「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。
吉備氏らの祖の稚武彦命(孝霊天皇の皇子)の女で、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・ヤマトタケル・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)らの母親とされる。
また、妹として伊那毘若郎女(いなびのわかいらつめ)が記され、同じく景行天皇の妃であったという。
日本書紀
「播磨稲日大郎姫」と表記され、景行天皇2年(72年)3月3日 (旧暦)に皇后に立てられた。
大碓皇子(おおうすのみこ)・ヤマトタケル(日本武尊)の母とされるが、この他に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説も注している。
また、稲日大郎姫の名の異説として「稲日稚郎姫」を挙げており、これは『古事記』で妹とされた伊那毘能若郎女に通じる。
なお、景行天皇52年条に薨去記事がある。
播磨国風土記
記紀のイナビノオオイラツメは、『播磨国風土記』の加古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」(いなみのわきいらつめ)と同一人と考えられる。
「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。
風土記によれば、印南別嬢の父は和珥氏(わにべのおみ)の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、母は吉備比売(きびひめ)である。
景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。
別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。
年経て没した後は日岡に墓を造った。
しかし、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。
陵墓
『播磨国風土記』の記述に基づいて、兵庫県加古川市加古川町大野にある日岡山古墳(円墳・径60m)が播磨稲日大郎姫命の日岡陵(ひおかのみささぎ)に比定され、現在宮内庁の管理下にある。