源俊頼 (MINAMOTO no Toshiyori)
源 俊頼(みなもと の としより、天喜3年(1055年) - 大治 (日本)4年1月1日 (旧暦)(1129年1月29日))は、平安時代後期の官人・歌人。
宇多源氏。
大納言源経信の子。
天永2年(1111年)、従四位上・木工頭。
経歴
はじめ堀河天皇近習の楽人として活動したが、その後、堀河院歌壇の中心人物として活躍した。
多くの歌合に作者・判者として参加し、『堀河院百首』を企画・推進した。
天治元年(1124年)、白河院の命により『金葉和歌集』を撰集。
藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。
歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた。
『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に約200首入集。
和歌
小倉百人一首
うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬものを(「千載和歌集」恋二・707)
百人秀歌(小倉百人一首の原撰本)
山桜咲きそめしより久方の雲居に見ゆる滝の白糸(「金葉和歌集」春・50)
百人秀歌と小倉百人一首の両方に採られている歌人で、異なる歌が採られているのは俊頼のみである。
著書
家集『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう)
歌学書『俊頼髄脳』(としよりずいのう)
書家として
歌人として高名で、能書家としての記録はない。
しかし父の経信も子の俊恵もともに能書家であり、古筆中には俊頼の書道として伝えられるものが多い。
中でも有名なものは次のとおりである。
巻子本『古今集』
元永本『古今集』
『三宝絵詞』(東大寺切)