源氏物語 (Tale of Genji)
源氏物語(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した、日本の長編物語、小説。
文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。
分量、内容、文学的成果のいずれから言っても王朝物語のみならず日本文学史上の雄であり、後世に与えた影響ははかりしれない。
題名
現在では通常『源氏物語』と呼ばれている、この物語が作られた当時の本来の題名がなんであったのかは明らかではない。
古写本には題名の記されていないものも多く、記されている場合でもさまざまなものが記されている。
『源氏物語』の古写本の場合、冊子の標題には「源氏物語」ないしはそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。
古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。
「源氏の物語」、「光源氏の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。
「紫の物語」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。
これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであって、物語の固有の名称であるとは言い難い。
もし作者が命名した題名があるのならこのようにさまざまな題名が生まれるとは考えがたいため、これらの題名は作者が命名した題名ではない可能性が高いと考えられている。
『紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などのこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられている。
しかし、作者を「紫式部」と呼ぶことが『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、その通称のもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したと見られることなどから、源氏を主人公とした名称よりも古いとする見解もある。
なお、「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。
なお、『河海抄』などの古伝承には、「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがあるが、現在「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することは出来ない。
そのため池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしているが、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する。」として「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている。
なおこのほかに「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、漢籍の影響を受けたものでありそれほど古いものはないと考えられており、池田亀鑑によればその使用は江戸時代を遡らないとされる。
通説
一条天皇中宮藤原彰子(藤原道長息女)に女房として仕えた紫式部がその作者であるというのが通説である。
物語中に作者を知る手がかりはないが、以下の書より作者が紫式部であることはまず動かないとされている。
『紫式部日記』(写本の題名は全て『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述
藤原公任の 源氏の物語の若紫 という呼びかけ。
「左衛門督 あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ とうかがひたまふ 源氏にかかるへき人も見えたまはぬにかの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり」
一条天皇の源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいるという述懐により日本紀の御局と呼ばれたこと。
「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべる」
藤原道長が源氏の物語の前で好色の歌を日記作者に詠んだこと。
「源氏の物語御前にあるを殿の御覧じて、例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる すきものと名にしたてれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう と聞こゆ」
底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本
尊卑分脈(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)の註記
「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」
後世の源氏物語註釈書
なお、紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。
短期間に一気に書き上げられたとする考え方
長期間に渡って書き継がれてきたとする考え方。
この場合は、その間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。
一部別作者説
『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしても、一部に別人の手が加わっているのではないかとする説は古くから存在する。
古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。
また『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。
また一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなくその娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。
近代に入ってからも、様々な形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする理論が唱えられてきた。
与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。
和辻哲郎は、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「一つの流派を想定するべきではないか」としている。
戦後になって登場人物の官位の矛盾などから武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた。
これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりで全て書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、すべて「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとした。
そして「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した。
阿部秋生は、『伊勢物語』・『竹取物語』・『平中物語』・『宇津保物語』・『落窪物語』・『住吉物語』など、当時存在した多くの物語の加筆状況を調べた上で、「そもそも、当時の「物語」は、ひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である」とした。
ゆえに、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した。
また文体、助詞・助動詞などの単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている。
執筆期間・執筆時期
源氏物語が、紫式部によって「いつ頃」・「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。
紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。
安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの三・四年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。
しかしその後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説が強く唱えられるようになってきた。
しかしそのような説がある一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとは言えず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある。
執筆動機
なぜ紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても直接明らかにした資料は存在せず、古くから様々に論じられている。
古注には、村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説、源高明の左遷を悲しんで書き始めたとする『河海抄』に記されている説などがある。
近代以降にも、作家としての文才や創作意欲を満たすため、寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため、式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため、といった様々な説が唱えられている。
概要
54帖より成り、写本・版本により多少の違いはあるもののおおむね100万文字に及ぶ長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語。
物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さから日本文学史上最高の傑作とされる。
ただし、しばしば喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、中村真一郎の説のアプレイウスの『黄金の驢馬』やペトロニウスの『サチュリコン』につづく「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする主張もあり、学者の間でも論争がある。
20世紀に入って英訳、仏訳などにより欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
物語は、母系制が色濃い平安朝中期を舞台にして、天皇の皇子として生まれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏が数多の恋愛遍歴をくりひろげながら人臣最高の栄誉を極め(第1部)、晩年にさしかかって愛情生活の破綻による無常を覚えるさままでを描く(第2部)。
さらに老年の光源氏をとりまく子女の恋愛模様や(同じく第2部)、或いは源氏死後の孫たちの恋(第3部)がつづられ、長篇恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている。
文学史では、平安時代に書かれた物語は『源氏物語』の前か後かで「前期物語」と「後期物語」とに分けられる。
後続して作られた王朝物語の大半は『源氏物語』の影響を受けており、後に「源氏、狭衣」として二大物語と称されるようになった『狭衣物語』などはその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。
また文学に限らず、絵巻(『源氏物語絵巻』)、香道など、他分野の文化にも影響を与えた点も特筆される。
さらに詳しいあらすじは源氏物語各帖のあらすじを参照。
構成
『源氏物語』は長大な物語であるため、通常はいくつかの部分に分けて取り扱われている。
二部構成説、三部構成説
『白造紙』、『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には宇治十帖の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、この頃すでにこの部分をその他の部分とは分けて取り扱う考え方が存在したと見られる。
その後『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つに分けて「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。
与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つに分けたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した。
その後の何人かの学者はこのはこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部に分け、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。
この三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。
この他に、重松信弘による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「竹河」までを第三部、宇治十帖を第四部とする四部構成説がある。
実方清による「桐壺」から「明石」を第一部、「澪標」から「藤裏葉」までを第二部、「若菜」から「幻」までを第三部、「匂宮」から「夢浮橋」までを第四部とする四部構成説も存在する。
このうち第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫の上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。
この区分は武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている。
(「紫の上系」と「玉鬘系」はそれぞれ「a系」と「b系」、「本系」と「傍系」あるいはそれぞれの筆頭に来る巻の巻名から「桐壺系」と「帚木系」といった呼び方をされることもある。)
また第三部は「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖に分けられることが多い。
上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて
帚木、空蝉、夕顔の三帖を帚木三帖
玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の十帖を玉鬘十帖
匂兵部卿、紅梅、竹河の三帖を匂宮三帖
橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖を宇治十帖
といった呼び方をすることもよく行われている。
また巻々単位とは限らないが、「紫上物語」、「明石物語」、「玉鬘物語」、「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある。
各帖の名前
以上の54帖の現在伝わる巻名は、紫式部自身がつけたとする説と、後世の人々がつけたとする説が存在する。
作者自身が付けたのかどうかについて、直接肯定ないし否定する証拠は見つかっていない。
現在伝わる巻名にはさまざまな異名や異表記が存在することから、もし作者が定めた巻名があるのならこのような様々な呼び方は生じないだろうから現在伝わる巻名は後世になって付けられたものであろうとする見解がある。
本文中(手習の巻)に現れる「夕霧」(より正確には「夕霧の御息所」)という表記が「夕霧」という巻名に基づくと見られるとする理由により少なくとも夕霧を初めとするいくつかの巻名は作者自身が名付けたものであろうとする見解もある。
源氏物語の巻名は後世になって、香道源氏香や投扇興の点数などに使われ、また女官や遊女が好んで名乗ったり(源氏名)した。
巻名の表記
実際の古写本や古注釈での巻名の表記には次のようなものがある。
仮名書きされているもの
部分的に漢字表記になっているもの
「はゝき木(陽明文庫本)」箒木、「すゑつむ花(陽明文庫本)」末摘花、「もみちの賀(源氏釈)」紅葉賀、「花のゑん(源氏釈)」花宴、「絵あはせ(源氏釈)」絵合、「とこ夏(奥入)」常夏、「うき舟(奥入)」浮舟、「あつま屋(源氏釈)」東屋
当て字を使用しているもの
「陬麻(奥入)」、「陬磨(原中最秘抄)」須磨、「未通女(奥入)」、「乙通女(河海抄)」乙女
異表記と見られるもの
「賢木」と「榊」、「朝顔」と「槿」、「乙女」と「少女」、「匂兵部卿」と「匂宮」、「寄生」と「宿木」
それ以外に「桐壺」に対する「壺前栽」、「賢木」に対する「松が浦島」、「明石」に対する「浦伝」、「少女」に対する「日影」といった大きく異なる異名を持つものもある。
巻名の由来
源氏物語の巻名の由来は次のようにいくつかに分けることが出来る。
その巻の中に現れた言葉に由来するもの。
「桐壺」「関屋」「野分」「梅枝」「藤裏葉」「匂宮」「紅梅」「手習」など。
その巻に中の和歌の文句に由来するもの。
「帚木」「空蝉」「若紫」「葵」「花散里」「澪標」「薄雲」「玉鬘」「常夏」「行幸」など。
上記の両者の条件を同時に満たすもの。
「夕顔」
他の巻に見える言葉に由来するもの。
「紅葉賀」
巻の中の語句を転用したもの。
「花宴」
巻の中で描かれている出来事に由来するもの。
「絵合」
巻の主題とおぼしき語句を用いたもの
「夢浮橋」「雲隠」
成立・生成・作者に関する諸説
現在では、3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、古来よりその成立、生成、作者、原形態に関してはさまざまな議論がなされてきた。
以下に特に重要であろうと思われるものを掲げる。
巻数
現在、『源氏物語』は通常54帖であるとされている。
但し巻名が伝わる中でも「雲隠」は題のみで本文が現存しない。
そのためこの54帖とする数え方にも以下のの2つの数え方がある。
巻名のみの「雲隠」を含め「若菜」を上下に分けずに54帖とする。
中世以前によく行われたとされる。
「雲隠」を除き「若菜」を上下に分けて54帖とする。
中世以後に有力になった。
また、鎌倉時代以前には『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、更に宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。
37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は法華経28品になぞらえたものであると考えられている。
これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。
但し、それらとは別に現在存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。
失われた巻々
かつて、『源氏物語』には、現在の『源氏物語』には存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。
そもそも『源氏物語』が最初から54帖であったかどうかというそのこと自体がはっきりしない。
現行の本文では(a)光源氏と藤壺が最初に関係した場面、(b)六条御息所とのなれそめ、(c)朝顔の斎院がはじめて登場する部分に相当する部分が存在しない。
位置的には「桐壺」と「帚木」のあいだにこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現にこの脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。
藤原定家の記した「奥入」には、この位置に「輝く日の宮(かかやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や丸谷才一のようにこの説を支持する人も多い。
つまり、「輝く日の宮」については(1)もともとそのような帖はなく作者は(a)(b)(c)のような場面をあえて省略した、(2)「輝く日の宮」は存在したがある時期から失われた、(3)一度は「輝く日の宮」が書かれたがある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された(丸谷才一は藤原道長の示唆によるものとする)、の3説があることになる。
なお、「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。
それ以外にも古注の一つ、『白造紙』に「サクヒト」、「サムシロ」、「スモリ」といった巻名が、また藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」、「すもり」、「桜人」、「ひわりこ」といった巻名が見える。
古注や古系図の中にはしばしば現在見られない巻名や人名が見えるため、「輝く日の宮」のような失われた巻が他にもあるとする説がある。
この他『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よまき)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。
源氏物語60巻説
『無名草子』や『今鏡』、『源氏一品経』のように古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。
一般的にはこの60巻という数字は仏教経典の天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか。」の説明に過ぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。
なお、この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する。」といった形で一部の古注釈に伝えられた。
源氏物語の注釈書においても一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものに付いてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、後に多くの影響を与えた。
例えば『源氏物語』の代表的な補作である「雲隠六帖」が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられている。
江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本を見ても、「絵入源氏物語」は『源氏物語』本文54冊に、「源氏目案」3冊、「引歌」1冊、「系図」1冊、「山路露」1冊を加えて、「源氏物語湖月抄」は「若菜」上下と「雲隠」を共に数に入れた源氏物語本文55冊に「系図」、「年立」等からなる「首巻」5冊を加えて、いずれも全60冊になる形で出版されている。
並びの巻
『源氏物語』には、並びの巻と呼ばれる巻が存在する。
『源氏物語』は鎌倉時代以前には、「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた(なお並びがあるものは他に『宇津保物語』、『浜松中納言物語』がある)。
このことに対して「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。
帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると、話がつながるという説がある。
その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。
並びの巻に関する寺本直彦の説
「源氏物語目録をめぐって―異名と并び」(『文学・語学』1978年6月)による。
『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、
a桐壺 - 壺前栽
b賢木 - 松が浦島
c明石 - 浦伝
d少女 - 日影
e若菜(上‐箱鳥、下‐諸鬘、上下‐諸鬘)
f匂宮 - 薫中将
g橋姫 - 優婆塞
h宿木 - 貌鳥
i東屋 - 狭蓆
j夢浮橋 - 法の師
寺本は、hで「貌鳥」を並の巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、e「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。
その他a、jもそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また『奥入』の「空蝉」巻で、
一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮このまきなし(イこのまきもとよりなし)。
ならひの一はヽ木ヽうつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。
という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指していると理解しようとした。
そして、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱った。
寺本は結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々を分けまた合わせる組織・構成に関係づけた。
巻々の執筆・成立順序
『源氏物語』の巻々が執筆された順序については、「桐壺」から始まる現在読まれている順序で書かれたとするのが一般的な考えであるが、必ずしもそうではないとする見方も古くから様々な形で存在する。
古注の『源氏物語のおこり』や『河海抄』などには『源氏物語』が現在冒頭に置かれている「桐壺」の巻から書き始められたのではなく、石山寺で「須磨」の巻から起筆されたとする伝承が記録されている。
但しこれらの伝承は「紫式部が源高明の死を悼んで『源氏物語』を書き始めた」とするどう考えても歴史的事実に合わない説話や、紫式部が菩薩の化身であるといった中世的な神秘的伝承と関連づけて伝えられることも多かったため、古くからこれを否定する言説も多く、近世以降の『源氏物語』研究においては『源氏物語』の成立や構成を考えるための手がかりとされることはなかった。
与謝野晶子は、『源氏物語』は「帚木」巻から起筆され、「桐壺」巻は後になって書き加えられたのであろうとする説を『源氏物語』の全体を二分して後半の始まりである「若菜」巻以降を紫式部の作品ではなくその娘である太宰三位の作品であろうとする見解とともに唱えた。
和辻哲郎は、「帚木」巻の冒頭部の記述についての分析などから、「とにかく現存の源氏物語が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものではないことだけは明らかだと思う。」と結論付けた。
阿部秋生は、「桐壺」巻から「初音」巻までについて、まず「若紫」・「紅葉賀」・「花宴」・「葵」・「賢木」・「花散里」・「須磨」の各巻が先に書かれ、その後「帚木」・「空蝉」・「夕顔」・「末摘花」が書かれた後に、「須磨」以後の巻が執筆され、「乙女」巻を書いた前後に「桐壺」巻が執筆されたとする説を発表した。
しかし、大きな影響を与えることは無かった。
武田宗俊の第一部二系統説
武田宗俊は阿部秋生の仮説を『源氏物語』第一部全体に広げ、第一部の巻々を紫上系・玉鬘系の二つの系統に分類し、
紫上系の巻だけをつなげても矛盾の無い物語を構成し、おとぎ話的な「めでたしめでたし」で終わる物語になっている。
武田宗俊はこれを『「原」源氏物語』であるとしている。
紫上系の巻で起こった出来事は玉鬘系の巻に反映しているが、逆に玉鬘系の巻で起こった出来事は紫上系の巻に反映しない。
玉鬘系の巻はしばしば紫上系の巻と時間的に重なる描写がある。
源氏物語第一部の登場人物は紫上系の登場人物と玉鬘系の登場人物に明確に分けることが出来、紫上系の登場人物は紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場するのに対して玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にしか登場しない。
光源氏や紫上といった両系に登場する主要人物の呼称が紫上系の巻と玉鬘系の巻で異なる。
紫上系の巻で光源氏と関係を持つのは紫の上・藤壺・六条御息所といった身分の高い「上の品」の女性達であり、玉鬘系の巻で光源氏と関係を持つのは空蝉・夕顔・玉鬘といった上の品より身分の低い「中の品」の女性達であるというように明確に分かれている。
桐壺巻と帚木巻、夕顔巻と若紫巻等、紫上系の巻から玉鬘系の巻に切り替わる部分や逆に玉鬘系の巻から紫上系の巻に切り替わる部分の描写に不自然な点が多い。
紫上系の巻の文体や筆致等は素朴であり、玉鬘系の巻の描写は深みがある。
これは後で書かれた玉鬘系の方がより作者の精神的成長を反映しているためであると考えると説明がつく。
といったさまざまな理由から『源氏物語』第一部はまず紫上系の巻が執筆され、玉鬘系の巻はその後に、一括して挿入されたものであるとした。
武田説以後
風巻景次郎は、現在の『源氏物語』には存在しない「輝く日の宮の巻」と「桜人の巻」の存在を想定し、それによって武田説に存在した「並びの巻」と「玉鬘系」の「ずれ」を解消し、「並びの巻が玉鬘系そのものであり、後記挿入されたものである」とした。
丸谷才一は大野晋との対談でこの説をさらに深め、(1)b系は空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を中心に源氏の恋の失敗を描いた帖であることが共通している事、(2)筆がa系よりもこなれており叙述に深みがある事などの点から、a系第一部の評価が高くなったのちに、今度は御伽噺の主人公のように完璧な光源氏(実際にa系の源氏はそう描かれている)の人間味を描くために書かれたのがb系ではないかと述べている。
また、b系には後に「雨夜の品定め」と呼ばれる女性論や「日本紀などはただかたそばぞかし」と源氏に語らせた物語論もあり、たいへん興味深いものとなっている。
この他にも武田説が出てからは様々な論点から武田説と同様に『源氏物語』が現行の巻の並び通りに執筆・成立されたのではないとする学説が続出した。
武田説については、このように大きな影響力を持ち、多くの賛同者を得た一方で激しい批判も数多く受けた。
批判を行った点は論者によってさまざまに異なるが、その主なものを挙げる。
「葵」巻の中に末摘花のことを指しているとされる一節があるなど、玉鬘系の人物が紫上系の巻に現れるといった点などの武田説の主張の根拠の事実認識に誤りがあるとするもの。
「玉鬘系の主要人物が紫上系に登場しないこと」などは構想論上の要請に基づくものとして説明できるとするもの。
根拠に描写がこなれているとか不自然であるとかいった主観的なものについては、学問的に検証できるものではなく、武田論文においても具体的な検証は何も行われていないとするもの。
『源氏物語』がどのような経過で成立したのかを根拠付ける外部資料は少なくとも今のところ存在せず、また『更級日記』などの記述を見ても成立してほど無い時期から『源氏物語』は今のような五十四帖全てが完成した形で読まれてきたと考えられる。
したがって、例え『源氏物語』の成立過程がどのようなものであるにせよ、『源氏物語』の研究・鑑賞は五十四帖全てが完成した形での『源氏物語』に対して行われるべきである。
また『源氏物語』に一見すると欠落している部分が存在するように見えたりするのは武田説が主張するような複雑な成立の経緯が存在するために起きた現象なのではなく、物語の中に意図的に「描かれていない部分」を設けることによって全てを具体的に描くより豊かな世界を構成しようとする構想上の理由が原因であるとするもの。
成立論と構想論が明確に区別されず混じり合って議論されていることを批判するもの。
紫上系と玉鬘系の間に質的な違いが存在することを認めつつも、そこから何らの証拠も無いままで成立論に向かうのは「気ままな空想」に過ぎないとするもの。
第3部と宇治十帖
「匂宮」巻以降は源氏の亡き後、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。
特に最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ、京と宇治市を舞台に、薫・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。
第3部および宇治十帖については他作説が多い。
主なものを整理すると以下のとおりとなる。
「匂宮」「紅梅」「竹河」は宇治十帖とともに後人の作を補入したものであるとの小林栄子による説。
宇治十帖は大弐三位(紫式部の娘賢子)の作であるとする説。
一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などによる。
また、与謝野晶子は「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。
別人の作説 安本美典 文部省(現文部科学省)の統計数理研究所(「雲隠」までと宇治十帖の名詞と助動詞 (国文法)の使用頻度が明らかに異なるという研究結果による)
なお、通説では第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまで言うことはできない)というものである。
また、研究者のあいだで通説においても、「紅梅」「竹河」はおそらく別人の作であるとされる。
(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある。)
その他の説
原『源氏物語』短編説 - 原『源氏物語』は、「若紫」「蛍」程度の短編であるとの説。
和辻哲郎による。
後挿入説 - 一部の帖があとから挿入されたという説。
「桐壺」1帖(室町時代の『源氏物語聞書』、与謝野晶子の説)、「帚木」「空蝉」「夕顔」3帖(風巻景次郎の説)など。
主要テーマ(主題)の諸説
「源氏物語の主題が何であるのか」については古くから様々に論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言で言い表すような「主題」については「もののあはれ」論がその位置に最も近いとは言えるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。
古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』、『荘子』、『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的、道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解と言えた。
『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とは言い難いこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。
これに対し、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として「もののあはれ」論を主張した。
この理論は源氏物語全体を一言で言い表すような「主題」として最も広く受け入れられることになった。
その後明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある。」といった理論が現れた。
明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるに伴いさまざまな試みがなされ、中には部分的にはそれなりの成果を上げたものもあった。
しかし、そもそも『源氏物語』に西洋の文学理論でいうところの「テーマ」が存在するのか。
『源氏物語』に対して西洋の文学理論を適用することおよびそれに基づく分析手法を用いた結果導き出された「テーマ」に意味があるのかといった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況である。
源氏物語全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、広く合意された結論が出たとは言えない状況である。
源氏物語のそれぞれの部分についての研究がより精緻になるに従って源氏物語全体に一貫した主題を見つけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる。」という状況になる。
平成10年(1998年)から平成11年(1999年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、源氏物語全体の主題について直接論じたものはなく、すべて特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである。
藤原氏と源氏
『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代(作者の紫式部も藤原氏で、その上『尊卑分脈』注に「紫式部是也(中略)御堂関白道長妾」とあるなど藤原道長の愛人とされる)に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏(朱雀天皇以降、皇后に源氏がなったことはなく、常に藤原北家からの皇后である)を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いた(王朝物語の全てが源氏が勝利する(例えば『狭衣物語』の狭衣中将)ことを含む)のか。
この疑問に対して『源氏物語』を著したのは藤原氏の紫式部ではなく源氏の源高明らであるとする推理作家である藤本泉の説、恨みをはらんで失脚していった源氏の怨霊を静める為であるという逆説の日本史などで論じた井沢元彦の説がある。
尤も、このような見解についてはそもそも紫式部の当時藤原氏と源氏(あるいはその他の氏族)との政治的な対立は「藤原氏の完全な勝利」ですでに決着しており、当時の政争とは藤原道長とその甥藤原伊周との対立などほぼ全て「藤原氏内部での権力闘争」であった。
また藤原道長の正妻が源倫子であるなど、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとは言えず個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方が多い。
概要
写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。
ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。
青表紙本系
藤原定家が校合したもの。
その表紙が青かったことからこう呼ばれる。
定家の直筆『定家本』4帖を含む。
一般的には最も紫式部の書いたものに近いとされている。
河内本系
大監物 源光行、源親行の親子が校合したもの。
彼ら2人とも河内守を経験したことがあることからこう呼ばれる。
表題は『光源氏』となっているものも多い。
別本
「青表紙本系」および「河内本系」のどちらでもないもの。
特定の系統を示すものではない。
一般には「青表紙本系」と「河内本系」が混合し、崩れた本文であると考えられるが、中には藤原定家らによって整理される以前の形態を残すものもあると考えられている。
ただし、流通しているものは混合している。
近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。
また、筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。
そこで藤原定家はそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。
ただし、その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え室町時代には百数十種類にも及んだ。
なお、16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち慶長年間になって、はじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。
現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。
参考
本文の伝承の始まり
紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。
また『紫式部日記』の記述によれば紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものは無い。
『紫式部日記』の記述によると、そもそも作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本が道長の手によって勝手に持ち出されるといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。
確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つも見つかっておらず、この時期の写本を元に作成されたと見られる写本も非常に数が限られている。
このため現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。
そのため現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。
なお、平安時代末期に成立したと見られる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として『源氏物語』の本文と見られるものが記されており、その中には現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら現在発見されているどの写本にも見られない本文が含まれている。
この本文は、現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上もともとの本文の要約である可能性などもあるため本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。
『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたと見られる。
しかしながら鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』等の物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には源麗子本等の身分の高い人物が自ら作ったと見られる写本もあった。
しかし、物語という作品の位置付けが「絵空事」「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集等公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集等と比べても極めて低いものであった。
そのため当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったと見られる。
この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという、当時の身分・階級制度の中では高いとは言えない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。
また『更級日記』の中の、作者(菅原孝標女)が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述に見られるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったと見られる。
写本による流通が主であった時代には大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。
このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。
「青表紙本」と「河内本」の成立
『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから『古今和歌集』等と並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。
1つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう1つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。
これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。
この両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。
現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方を見ると意味が通らない多くの箇所で「河内本」を見ると意味が通るような本文になっていることが多い。
これは「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。
このことは藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない。」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった。」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた。」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられて来た。
但し藤原定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって藤原定家の『土佐日記』等の他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによってある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために、再検討の必要が唱えられている。
室町時代・江戸時代
この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは、「青表紙本は絶えてしまった。」と述べていたほどであった。
その最も大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ように見える)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったからであると考えられている。
それでも室町時代半ば頃から藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。
ただし三条西家系統の「青表紙本」は純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」等からの混入が見られる本文であった。
その後江戸時代に入ると、版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。
「絵入源氏物語」、「首書源氏物語」、「源氏物語湖月抄」といった版本の本文は当時最も有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文にさらに「河内本」や「別本」からの混入が見られる本文であった。
写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点に付いての指摘を行ったこともあるが本格的な本文研究に進むことは無かった。
この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。
明治時代以後
明治時代に入ると活字による印刷本文の発行が始まった。
当初は江戸時代に発行された刊本をそのまま活字化するだけであったが、次第により古い、より原本に近いと考えられる本文を求めるようになった。
「首書源氏物語」の本文と「源氏物語湖月抄」の本文とではどちらが優れているのかといった議論を経て1914年(大正3年)に「首書源氏物語」を底本にした校訂本である源氏物語が有朋堂文庫から出版され、広く普及した。
やがて明治末年ころから学問的な本文研究の努力が本格的に始まった。
多くの学者の努力によって「大島本」などの「青表紙」系統の写本や当時はすでに失われてしまったと考えられていた「河内本」系統の写本など多くの古写本が発見され、学問的な比較作業が行われた。
その結果は池田亀鑑により『校異源氏物語』および『源氏物語大成 校異編』に結実した。
池田亀鑑は集められた多くの写本を「青表紙本系」と「河内本系」の2つに分け、それに属さない写本を「別本」として1つにまとめ、3種類の系統に分けた。
古注の中等で言及されており、言葉だけは広く知られていた「青表紙本」と呼ばれる写本のグループと「河内本」と呼ばれる写本のグループが本当に存在することはこの時代になって初めて明らかになったと言うことが出来る。
この3分類法はいろいろな別の分野での研究結果とも一致すると考えられたこともあって、説得力のある見解として広く受け入れられるようになった。
但し、池田はそれぞれの写本をどの分類に入れるかを決めるに当たってはそれぞれの写本の奥書(その写本がどのような写本からいつ誰によってどのように写されたのかといったことを記してある部分)の内容等のそれぞれの写本の外形的なものを重視した。
しかしこのような歴史的経緯や写本を外形的な特徴に基づいて分類することが本文そのものの内容の分類として正しい、妥当なものであるのかどうか、そもそも「青表紙本」や「河内本」が成立したのは事実であるとしても本文の系統としてそのような区分を立てることが妥当なのかどうかについての検討をすることも無かった点には注意を払う必要がある。
このように、その後の研究によってこの3分類法はいろいろと問題点も指摘されるようになってはいるが、現時点でも一応は有効なものとされている。
これらの3分類を見直すべきだとする見解としては、阿部秋生による、「奥書に基づいて写本を青表紙本、河内本などと分類することが妥当なのかどうかは、本文そのものを比較しそういう本文群が存在することが明らかになった後で初めて言えることである。その手続きを経ることなく奥書に基づいて写本を分類することは本文そのものを比較するための作業の前段階の仮の作業以上の意味を持ち得ない。」
あるいは、「もし青表紙本がそれ以前に存在したどれか一つの本文を忠実に伝えたのであれば、河内本が新しく作られた混成本文であるのに対し青表紙本とは別本の中の一つであり、源氏物語の本文系統は青表紙本・河内本・別本の3分類で考えるべきではなく別本と河内本の2分類で考えるべきである。」といったものがある。
実際の写本
古い時代に作られ現在まで伝わっている実際の写本は、出来上がった写本が完成当時の姿をそのまま伝えられていることは少なく、一部が欠けてしまったり、その欠けた部分を補うために別の写本と組み合わせたり、別系統の本文を持った写本と校合されていることも少なくない。
またこのような状態の写本を元にしてそのまま写した写本を作成したために最初に完成した時点ですでに巻ごとに異なった系統の本文になったと見られる写本も存在する。
例えば「青表紙本」系統の写本の中で最も良質な本文であるとされ、現在多くの校訂本の底本に採用されている飛鳥井雅康筆の「大島本」。
それでも、「浮舟」を欠いた53帖しか現存しておらず、「初音」帖は他の部分と同じ飛鳥井雅康の筆でありながら本文自体は「青表紙本」系統の本文ではなく「別本」系統の本文である。
「桐壺」と「夢浮橋」は後世の別人の筆である。
またほぼ全巻にわたって数多くの補筆や訂正の跡が見られるが、その内容は「河内本」系統の写本に基づくと見られるものが多い。
校訂本
まず、本文校訂のみに特化して校異を掲げた文献をあげる。
この他に主要な写本については個別に翻刻したものが出版されている。
『校異源氏物語』(全4巻)池田亀鑑(中央公論社、1942年)
『源氏物語大成』(校異編)池田亀鑑(中央公論社、1953年-1956年)
『河内本源氏物語校異集成』加藤洋介編(風間書房、2001年)ISBN 4-7599-1260-6
『源氏物語別本集成』(全15巻)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、1989年3月~2002年10月)
『源氏物語別本集成 続』(全15巻の予定)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、2005年~)
注釈が付いたものとしては、次のようなものが出版されている。
多くは校訂本も兼ねており、現代語訳と対照になっているものもある。
また注釈などの内容を簡略化した軽装版や文庫版が同じ出版社から出ているものもある。
これらはすべて青表紙本系の写本を底本にしており、中でも三条西家本を底本にしている(旧)日本古典文学大系本(およびその軽装版である岩波文庫版)を除き基本的に大島本を底本にしている。
『源氏物語』日本古典全書(全7巻)池田亀鑑著(朝日新聞社、1946年~1955年)
『源氏物語』日本古典文学大系(全5巻)山岸徳平(岩波書店、1958年~1963年)
『源氏物語評釈』(全12巻別巻2巻)玉上琢弥(角川書店、1964年~1969年)
『源氏物語』日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1970年~1976年)
『源氏物語』新潮日本古典集成(全8巻)石田穣二他(新潮社、1976年~1980年)
『源氏物語』完訳日本の古典(全10巻)阿部秋生他(小学館、1983年~1988年)
『源氏物語』新日本古典文学大系(全5巻)室伏信助他(岩波書店、1993年~1997年)
『源氏物語』新編日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1994年~1998年)
登場人物
源氏物語の登場人物
『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。
なお、『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。
また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。
また作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであると見られ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多い。
ゆえに、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。
光源氏第1部・第2部の主人公。
桐壺帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。
臣籍降下して源姓を賜る。
いったん須磨に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、六条院と称せられる。
原文では「君」「院」と呼ばれる。
妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。
子は、夕霧(母は葵の上)、冷泉帝(母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、明石中宮(今上帝 (源氏物語)の中宮。母は明石の御方)。
ほか養女に秋好中宮(六条御息所の子)と玉鬘 (源氏物語)(内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。
桐壺帝光源氏の父。
子に源氏のほか、朱雀帝(のち朱雀院)、蛍兵部卿宮、八の宮などが作中に出る。
末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。
桐壺更衣桐壺帝の更衣。
源氏が3歳のとき夭逝する。
藤壺桐壺帝の先帝の内親王。
桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。
源氏と密通して冷泉帝を産む。
葵の上左大臣の娘で、源氏の最初の正妻。
源氏より年上。
母大宮 (源氏物語)は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。
夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。
六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。
頭中将左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。
源氏の友人でありライバル。
恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。
子に柏木、雲居雁(夕霧夫人)、弘徽殿女御(冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、髭黒大将夫人)、近江の君など。
主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。
六条御息所桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。
源氏の愛人。
源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。
前東宮との間の娘は斎宮、のちに源氏の養女となって冷泉帝の後宮に入り、秋好中宮となる。
源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。
紫の上藤壺中宮の姪、兵部卿宮の娘。
幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。
源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。
晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。
明石の御方明石の入道の娘。
源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。
不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。
末摘花常陸宮の娘。
大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。
作品中最も醜く描かれている。
女三の宮朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。
藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。
柔弱な性格。
柏木と通じ、薫を生む。
柏木 (源氏物語)内大臣の長男。
女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。
のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。
夕霧 (源氏物語)源氏の長男。
母は葵の上。
母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて花散里に養育される。
2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。
柏木の死後、その遺妻朱雀院の落葉の宮に恋をし、強いて妻とする。
薫第3部の主人公。
源氏(真実には柏木)と女三宮の子。
生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。
宇治の八の宮の長女大君、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。
匂宮今上帝と明石中宮の子。
第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。
薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。
宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。
浮舟八の宮が女房に生ませた娘。
母が結婚し、養父とともに下った常陸国で育つ。
薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが横川の僧都に助けられる。
日本語
『源氏物語』の原文は専門的な教育なしには現代日本人にとってかなり難しいもので、瀬戸内寂聴の訳したものが近年ベストセラーになったように、むしろ現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。
数ある日本の古典文学の中でも恐らくその豊かな内容ゆえに最も現代語訳が試みられており、また訳者に作家が多いのも特徴である。
しばしばこれらは翻訳者の名前をとって「与謝野源氏」、「谷崎源氏」といった風に「○○源氏」と呼ばれている。
外国語
『源氏物語』は、日本文学の代表的なものとして、多くの言語に翻訳されている。
さらに、重訳や抄訳も含めると、現在、20言語以上の翻訳が確認できるとのことである。
英語訳
最初の外国語への翻訳は、恐らく末松謙澄による英訳である。
これは彼がイギリスのケンブリッジにいた時になされたもので、1882年に出版された。
しかし、抄訳であることに加えて、翻訳の質が悪いことから、当時においても殆ど注目されなかった(後述のウェイリーは、参照していたようである)。
今日でも一部の研究者以外に省みられることはない。
続いて、ブルームズベリー・グループのアーサー・ウェイリーにより、『源氏物語』は西洋世界に本格的に紹介されることになる。
1925年に「桐壺」から「葵」までを収めた第1巻が出版され、1933年に「宿木」から「夢浮橋」までを収めた第6巻が出て完結した。
ウェイリーは語学の天才であるのみならず、文学的才能をも持ち合わせていた。
彼が翻訳者であったという幸運もあって、源氏物語は多くの読者を持つことなり、当時の文学界の話題ともなった。
その読者の中には、同じくブルームズベリーのヴァージニア・ウルフもいた。
『源氏物語』が高い評価をもって受け入れられたのは、時代性もあると言われる。
当時、西欧では新しいタイプの心理小説が流行していた。
『源氏物語』は、このいわゆる「意識の流れ」に近い文体を持っており、これが正当な評価を獲得した一つの理由である。
ウェイリー訳は、世界で広く重訳されている。
ウェイリーの訳は、かなり自由な意訳を行っており、当時の文学界にあわせた華麗な文体を用いている。
また、省略箇所が多く、誤訳が指摘もされていた。
日本文学研究者のエドワード・サイデンステッカーの訳(1976年)は、ウェイリー訳の欠点を改善し、戦後の文学的傾向に合わせて、文章の装飾を落とし、原文に近づける努力がなされている。
ロイヤル・タイラーの訳(2001年)は一層この傾向を強めたもので、豊富な注を持ち、学問的な精確さを持っている。
他に、英訳で重要なものとしては、抄訳ではあるが、ヘレン・マカラウのものがある(1994年)。
フランス語訳
フランスでは、日本学の権威ルネ・シフェールが翻訳に当たった(1988年に公刊)。
現在まで、フランス語圏における唯一の完訳であり、また訳の質も非常に高く、評価を得ている。
ドイツ語訳
オスカー・ベンルが原文から訳し、これも優れた訳と評価がある。
ロシア語訳
タチヤーナ・ソコロワ=デリューシナの翻訳がある。
チェコ語訳
福井県立大学教授カレル・フィアラのチェコ語訳は現在進行中。
フィンランド語訳
参議院議員の弦念丸呈(ツルネン・マルテイ)が1980年にフィンランド語の翻訳(但し抄訳)を出版している。
スウェーデン語訳
アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1927年に出版されている。
オランダ語訳
アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1930年に出版されている。
イタリア語訳
アーサー・ウェイリーの英語訳からの重訳(抄訳)が1944年に出版されている。
中国語訳
原文からの完訳としては、豊子愷の翻訳『源氏物語上・中・下』(人民文学月報社、1980年から1982年)がある。
また台湾では林文月の翻訳『源氏物語上・下』(中外文学月報社、1982年)がある。
朝鮮語訳
田溶新の翻訳や柳呈の翻訳『源氏物語イヤギ(物語)』全3冊(ナナム出版、2000年)がある。
影響・受容史
中古期における『源氏物語』の影響は大まかに2期に区切ることができる。
第1期は院政期初頭まで、第2期は院政期歌壇の成立から新古今集撰進までである。
第1期においては、『源氏物語』は上流下流を問わず貴族社会でおもしろい小説としてひろく読まれた。
当時の一般的な上流貴族の姫君の夢は、後宮に入り帝の寵愛を受け皇后の位に上ることであったが、『源氏物語』は、帝直系の源氏の者を主人公にし彼の住まいを擬似後宮にしたて女君たちを分け隔てなく寵愛するという内容で彼女たちを満足させ、あるいは人間の心理や恋愛、美意識に対する深い観察や情趣を書きこんだ作品として貴族たちにもてはやされたのである。
この間の事情は菅原孝標女の『更級日記』に詳しい。
すぐれた作品が存在し、それを好む多くの読者が存在する以上、『源氏物語』の享受はそのままこれにつづく小説作品の成立という側面を持った。
中古中期における『源氏』受容史の最大の特徴は、それが『源氏』の文体、世界、物語構造を受継ぐ諸種の作品の出現をうながしたところにあるといえるだろう。
11世紀より12世紀にかけて成立した数々の物語は、その丁寧な叙述と心理描写のたくみさ、話の波乱万丈ぶりよりも決めこまやかな描写と叙情性や風雅を追求しようとする性向において、あきらかに『宇津保物語』以前の系譜を断ちきり、『源氏物語』に拠っている。
それがあまりに過度でありすぎるために源氏亜流物語という名称さえあるほどだが、例えば『浜松中納言物語』『狭衣物語』『夜半の寝覚』などは『源氏』を受継いで独特の世界をつくりあげており、王朝物語の達しえた成熟として高く評価するに足るであろう。
(なお、後期王朝物語=源氏亜流物語には光源氏よりも薫の人物造型がつよく影響を与えていることが知られる。源氏物語各帖のあらすじの「第三部」参照。)
平安末期には既に古典化しており、『六百番歌合』で藤原俊成をして「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と言わしめた源語は歌人や貴族のたしなみとなっていた。
このころには言語や文化の変化や流れに従い原典をそのまま読むことも困難になってきたため、原典に引歌や故事の考証や難語の解説を書き添える注釈書が生まれた。
その一方、仏教が浸透していく中で、「色恋沙汰の絵空事を著し多くの人を惑わした紫式部は地獄 (仏教)に堕ちたに違いない」という考えが生まれ、「源氏供養」と称した紫式部の霊を救済する儀式がたびたび行われた。
これは後に小野篁伝説と結びつけられた。
江戸時代後期には、当時の中国文学の流行に逆らう形で、設定を室町時代に置き換えた通俗小説ともいうべき『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦著)が書き起こされ、「源氏絵」(浮世絵の一ジャンル)が数多く作られたり歌舞伎化されるなど世に一大ブームを起こしたが、天保の改革であえなく断絶した。
明治以後多くの現代語訳の試みがなされ、与謝野晶子や谷崎潤一郎の訳本が何度か出版されたが、昭和初期から「皇室を著しく侮辱する内容がある」との理由で、光源氏と藤壺女御の逢瀬などを二次創作物に書き留めたり上演することなどを政府から厳しく禁じられたこともあり、訳本の執筆にも少なからず制限がかけられていた。
戦後はその制限もなくなり、円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴などの訳本が出版されている。
また、原典に忠実な翻訳以外に、橋本治の『窯変源氏物語』に見られる大胆な解釈を施した意訳小説や、大和和紀の漫画『あさきゆめみし』や小泉吉宏の漫画『まろ、ん』を代表とした漫画作品化などの試みもなされている。
現代では冗談半分で、『源氏物語』と純愛もののアダルトゲームやハーレムアニメとのストーリーの類似性が指摘されることがあるが、「『源氏物語』は猥書であり、子供に読ませてはならない」という論旨の文章は、既に室町時代や江戸時代に存在している。
『源氏物語』は、海外にも少なからず影響を与えている。
マルグリット・ユルスナールは、『源氏物語』の人間性の描写を高く評価し、短編の続編を書いた。
2008年には、京都市などが中心となって、源氏物語千年紀と称して、各種のイベントが予定されている。
歴史的注釈書
『源氏物語』については平安末期以降数多くの注釈書が作られた。
『源氏物語』の注釈書の中でも特に明治時代以前までのものを古注釈と呼ぶ。
一般には『源氏釈』から『河海抄』までのものを「古注」、『花鳥余情』から『湖月抄』までのものを「旧注」、それ以後江戸時代末までのものを「新注」と呼び分けている。
『源氏釈』や『奥入』といった初期の注釈書はもともとは独立した注釈書ではなく写本の本文の末尾に書き付けられていた注釈が、後になって独立した1冊の書物としてまとめられたものである。