玉葉和歌集 (Gyokuyo wakashu (Collection of Jeweled Leaves))
玉葉和歌集(ぎょくようわかしゅう)は鎌倉時代の勅撰集。
第14勅撰。
20巻、歌数は2801首で、勅撰集の中で最大。
部類の構成は春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、旅、恋(五巻)、雑(五巻)、釈教、神祇の順。
伏見天皇の院宣を奉じて京極為兼(1254-1332)が撰進。
正和元年3月28日 (旧暦)(1312年5月5日)に奏覧され(『増鏡』)、切継作業を経て同2年10月に完成。
持明院統・大覚寺統両統の政争に、それぞれが庇護した歌道の家である京極派・二条派の対立が絡み、企画から選定までに20年近い歳月を要した複雑な成り立ちを持つ。
すなわち、伏見天皇の治世、永仁元年(1293年)、二条為世・京極為兼・飛鳥井雅有・九条隆博に勅撰集編纂の勅命が下った。
が、選歌方針ほかを巡り為世・為兼両者の争論が白熱化し、激昂した為世が撰者を辞退、さらに同6年(1298年)には九条隆博、正安3年(1301年)には飛鳥井雅有が死没。
その間、幕府によって永仁六年に京極為兼は佐渡国へ配流、伏見天皇も譲位を強いられ、勅撰の議は中断せざるを得なかった。
その後、乾元 (日本)2年(1303年)になって為兼は召還され、徳治3年(1308年)伏見院政の開始に伴い、漸く勅撰集編纂事業は続行された。
為世の猛烈な反対にも拘らず、応長元年5月3日 (旧暦)(1311年5月21日)、為兼が単独で撰進すべき命が下ったのであった(『延慶両卿訴陳状』)。
こうして完成した『玉葉集』は、持明院統・京極派優先主義を貫き、大覚寺統・二条派の者に関しては過度なまでに冷遇し、二条為氏(16首)以下、形ばかりの入集である。
また当代重視方針を取り、藤原定家・藤原俊成・西行・藤原為家ら中世初期の著名歌人も50首以上採られているが、入集を果たした180人のうち、113人は勅撰集初出で、中でも女流の占める比重が過半数と大きい。
当代の歌人では、伏見院の93首が群を抜き、西園寺実兼・京極為教女京極為子(共に60首)、西園寺しょう子(49首)、京極為兼(36首)ら、前期京極派の主要歌人の顔ぶれが揃う。
『玉葉集』の名義は『万葉集』を思わせ、紀貫之の歌を巻頭に据えるなど、古歌を多く採っているが、それにも増してこの集の特色は、伝統を踏襲することを良しとせず、大胆にも斬新な表現上の技法を取り入れ、清新自由な歌風を創出したことにある。
動と静の対比、時間の推移の描写、擬態語・対句・同音反復の頻繁な使用など、従来の用語を使いながらも、革新的な試みがなされ、二条派の平淡な歌風に馴染んだ人に鮮明な印象を与える。
また、創意に乏しい題詠の数を抑え、精緻な自然観照や、純粋な心情の吐露など、鋭い感受性を伴った歌を目指した。
しかし、詩的工夫に固持し、「字余り」も辞さなかった結果、入念な彫琢が造作の痕跡を残し、流麗な調べに欠ける歌も多い。
玉葉集は、新古今で行き詰まった和歌の世界へ新風を吹きいれた非凡な作品であるにもかかわらず、僅かに『風雅和歌集』という後継者を得ただけで、その後何世紀にも渡って歌壇を保守的な二条派が主導したため、長らく異端視され続けた。
近代になって、歌人・土岐善麿(1885-1980)によって緻密な研究がなされ、京極派が再評価されてから、改めて『玉葉集』は脚光を浴びるようになった。
岩佐美代子氏による全注釈も出て、近年は研究が盛んである。