菅原清公 (SUGAWARA no Kiyokimi)

菅原 清公(すがわら の きよきみ/きよとも、宝亀元年(770年) - 承和 (日本)9年10月17日 (旧暦)(842年11月26日))は、平安時代初期の公家・文人。
父は菅原古人。
子に菅原是善、孫に菅原道真がいる。

文章博士から大学頭・式部大輔・左中弁・弾正大弼などを歴任、その後従三位となり牛車による参内を勅許された。
その間、延暦23年(804年)、遣唐使判官として空海・最澄らとともに唐へ渡った。
帰国後の弘仁9年(818年)には、清公の建議により朝廷における儀式や風俗が唐風に改められた。
具体的な後世に残った例としては、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めたことが挙げられる。
男子の場合「坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から「菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか「源融(みなもと の とおる)」の「融」や「源信 (公卿)(みなもとの・まこと)」の「信」など一文字訓読みという形式にし、女性の名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものである。

清公は「儒門之領袖」と称されて、文章博士の官位相当を貴族である従五位下に引き上げさせて、律令法によって本来大学寮の博士の筆頭とされてきた明経博士からその地位を奪った。
また、大江音人のように私邸にまで訪問して教えを請う者もいた(『扶桑略記』)。
このため、菅原氏の私邸の廊下(当時は空間が広く部屋代わりにも用いられていた)には学生達が集まるようになり、後世に「菅家廊下」と称されるようになったとされている(『北野天神御伝』)。
清公以後、博士が学生と私的な師弟関係を結ぶきっかけとなり一種の学閥の形成が進むとともに、子弟の教育に力を注いだ(勿論、後継者である是善・道真の才能による部分も大きいが)ことによって菅原氏から世襲的に文章博士が輩出されるようになったため、才用(実力)があれば家柄や人脈にとらわれず評価されるべきであると主張した都腹赤(都良香の伯父)をはじめとする他の文章博士の反感を買った。
菅原氏と反対派の対立は次代以後に持ち越され、後の道真左遷(昌泰の変)の遠因となったとする見方もある。

孫の道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。

家集に「菅家集」があるほか、清原夏野らと協同して「令義解」を編纂したことでも知られている。

[English Translation]