藤原基俊 (FUJIWARA no Mototoshi)
藤原 基俊(ふじわら の もととし、康平3年(1060年)- 永治2年1月16日 (旧暦)(1142年2月20日))は、平安時代後期の公家・歌人。
父は右大臣藤原俊家。
藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位衛門府にとどまった。
1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
和歌
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者もつとめた。
源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍した。
漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。
家集に「基俊集」がある。
小倉百人一首
ちぎりおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり (「千載集」雑・1023)
書家として
書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。
多賀切和漢朗詠集
陽明文庫蔵。
下巻末にあたる部分の断簡に、本文と同筆で「永久四年(1116年)孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。
このように年代と筆者が明記された書跡は、現存するおびただしい平安時代の遺品の中でも稀である。
山名切新撰朗詠集