藤原定方 (FUJIWARA no Sadakata)
藤原 定方(ふじわら の さだかた、貞観_(日本)15年(873年) - 承平 (日本)2年8月4日 (旧暦)(932年9月11日))は、平安時代前期から中期にかけての公家・歌人。
父は贈太政大臣藤原高藤(定方は次男)。
母は宮道列子。
同母姉妹に藤原胤子(宇多天皇女御、醍醐天皇生母)。
妻は藤原山蔭の娘。
子に藤原朝忠、藤原朝成、藤原能子(醍醐天皇女御・藤原実頼室)、代明親王妃、藤原兼輔室、藤原師尹室などがいる。
寛平4年(892年)に内舎人となったのをはじめに、寛平7年(895年)には陸奥国掾となり、翌年には従五位下尾張国権守となった。
その翌年には左近衛少将と累進を重ねた。
その後は相模国権介、備前国守などの地方官を歴任し、昌泰4年(901年)には従五位上左近衛少将となった。
その翌年の延喜2年(902年)には正五位下、延喜6年には従四位下権中将となった。
ついに延喜9年(909年)には参議となり、翌年には従四位上となった。
延喜13年(913年)には従三位中納言となり、同年4月には左衛門督を兼帯した。
延喜20年(920年)には大納言。
翌年には正三位。
延長 (元号)2年(924年)右大臣、延長4年(926年)従二位に至り、承平2年(932年)に60歳で没。
死後の8月10日従一位を追贈された。
三条に邸宅があったことから三条右大臣と呼ばれた。
和歌・管絃をよくし、紀貫之・凡河内躬恒の後援者であった。
「古今和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。
家集に「三条右大臣集」がある。
古今和歌集
秋ならで あふことかたき 女郎花 天の河原に おひぬものゆゑ
小倉百人一首
25番 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな(「後撰和歌集」恋三701)