藤原敦忠 (FUJIWARA no Atsutada)
藤原敦忠(ふじわら の あつただ、延喜6年(906年) - 天慶6年3月7日 (旧暦)(943年4月18日))は平安時代中期の公家・歌人。
本院左大臣藤原時平の三男。
従三位・権中納言。
三十六歌仙の一人。
通称、枇杷中納言・本院中納言。
経歴
蔵人頭を経て、天慶2年(929年)参議となり、同5年(932年)従三位権中納言に至る。
美貌であり、和歌や管絃にも秀でていたとされる。
和歌では、「後撰和歌集」や「大和物語」などに、雅子内親王(醍醐天皇皇女、斎宮)ほか多くの女流歌人との贈答歌が残されている。
「後撰和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。
家集に「敦忠集」がある。
管弦では、敦忠の死後、同様に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人たちが、敦忠の生前中は源博雅などが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、という。
このエピソードは『大鏡』で語られている。
比叡山の西坂本に音羽川 (京都府)を引き入れた別業(別荘)を有していたという。