要石 (Kaname-ishi (spirit rocks))

要石(かなめいし)は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮にある。
地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石。

外観
地上に見えている部分はほんの十数センチメートル。

香取神宮の要石の地上部分は丸いが、鹿島神宮の要石の地上部分は凹んでいる。

鹿島神宮の要石は、境内ではあるが社殿群から離れた、森の中の小さな祠にある。
鹿島神宮の要石は総門の手前にある。

伝承
地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。
あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。

そのためこれらの地域には大地震がないという。
ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。
なお、鹿島神宮と香取神宮は、日本で古来から神宮を名乗っていたたった3社のうち2社であり(もう1社は伊勢神宮)、重要性がうかがえる。

鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているという。
あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。

要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う、通称鹿島様)だといわれる。
ただし記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。
武甕槌大神は武神・剣神であるため、要石はしば剣にたとえられる。
石剣と言うことがある。
鯰絵では、大鯰を踏みつける姿や、剣を振り下ろす姿がよく描かれる。

エピソード
万葉集には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている。
江戸時代には、この歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられると言われた。

1255年(建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。

古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせた。
日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。
そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。

1855年旧暦10月の安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。
地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲国へ出かけたからだという説も現れた。

鹿島神社の要石
宮城県加美町の鹿島神社 (加美町)にも要石があり、風土記によれば鹿島神宮のものを模したものだという。
1973年にはまた別の要石が奉納され埋められた。

この鹿島神社は鹿島神宮と祭神は同じだが、他の多くの「鹿島神社」と違い、鹿島神宮ではなく塩竈神社からの勧請である。

比喩
要石は、動かせないもの、動かしてはならないものの比喩に使われることがある。

ただし、重要なもの、欠けてはならないものの比喩に使われるキーストーン (keystone) が要石と訳されることがある。
そのため、この2つの比喩は混同しやすい。

[English Translation]