陰徳太平記 (Intoku Taiheiki)

陰徳太平記(いんとくたいへいき)は日本文学の1つである。

全81巻と「陰徳記序および目録」1冊で、戦国時代 (日本)の山陰地方、山陽地方を中心に、室町時代13代将軍足利義輝の時代から、慶長の役まで(永正8年(1507年)頃-慶長3年(1598年)頃までの約90年間)を書く軍記物語。
現存するのは山口県文書館蔵本と毛利家蔵本である。
前者は昭和初期に焼失した香川家旧蔵本の写し、後者は毛利宗家へ献上されたものとみられる。
他に吉川家旧蔵本が存在したが、震災で焼失したという。

成立と作者

岩国領の家老香川正矩によって編纂され、その二男香川宣阿(宣阿)が補足した。

香川正矩はその原典というべき『陰徳記』を書くも、万治3年(1660年)執筆半ばにして逝去した。
父の遺志を継いだ香川景継は京都に遊学、執筆を続ける。
寛文5年(1665年)兄香川正恒は、岩国出身の儒学者宇都宮三近に「陰徳記序」を書いてもらう。
元禄8年(1695年)景継は「陰徳記自序」を書いており、この頃には完成していたと考えられている。
元禄11年(1698年)岩国領の検閲を経て、宝永3年(1706年)出版許可、享保2年(1717年)出版に至った。

出版にかかる費用の大半を藩に負担させるため、藩主吉川氏と宗家毛利氏、そしてその始祖である毛利元就にとって都合の良いように改稿されている。
完成から出版までに22年もかかったのは、内容を改編する必要性と当時の吉川家中、上方情勢を見極めていたためと考えられている。
吉川元春夫人が絶世の醜女という説についても、吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には元春夫人(熊谷氏)の器量が悪かったとの記述はない。
しかし香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、香川宣阿の『陰徳太平記』に継承されている。

史料的価値
脚色のみならず誤記も多い。
『甲陽軍鑑』や『雲陽軍実記』同様、この頃の歴史軍記自体が我が先祖の栄光や武勇を誇るための手段の一つであり、そのため多くの脚色があり、誤記と思われる箇所も多い。
このような理由により、一次史料ほどの信頼性が無く、一般的には低い評価がなされる。
しかしかながら歴史研究の結果、近年では裏付けの取れる部分も多く、「事実でないにしても、それに近いことがあった」と再評価されている。

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