青表紙本 (Aobyoshi-bon (Blue Book) Manuscripts)

青表紙本(あおびょうしぼん)とは、源氏物語の写本のうち藤原定家が作成したとされるものおよびそれを写して作成されたとされるものをいう。
「青表紙本」という呼び名は定家が作成した写本の表紙が青かったことに由来する。

成立
藤原定家の日記である『明月記』等の記述を元にすると、「藤原定家の家にはかつて「証本」と呼びうる信頼できる源氏物語の写本があった。
しかしあるときこれを盗まれてしまった。
その後自身の怠惰によりそのような状態が長く続いてきたが、あるときしかるべきところから写本を借りてきて家の少女らに命じて写本を作らせ、その後もいろいろなところにある写本と照合した。」とある。
現在定家の自筆本はばらばらの状態で4帖残っているが、最初の方を定家自らが書き、残りを別の人間が書いたものである。

評価
現在ある青表紙本と河内本の本文を比べると、青表紙本の方だと意味が通らない多くの箇所で河内本では意味が通るような本文になっていることが多い。
これは河内本が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して青表紙本では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。
このことは藤原定家と源光行らが共に当時の本文の状況を「乱れていてどれが正しいのかわからない。」と認識していたにもかかわらず、定家は「疑問を解決することはできなかった。」という意味のことを述べ、源光行は「調べた結果疑問を解決することができた。」という意味のことを述べていることともよく対応していると考えられてきた。
そのため、河内本と比べると青表紙本の方が原本により近い本文であると考えられてきた。
但し青表紙系の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては定家による土佐日記の写本を調べると、本文を意識的に整えたと見られる部分もあることなどから、再検討の必要が唱えられている。
藤原定家により写本の奥に書き付けられた注釈にである『奥入』に第一次と第二次があることを考えても青表紙本の定義である「藤原定家の定めた本文」がそもそも一通りではないとする見方もある。

青表紙本=別本説
阿部秋生により唱えられたもので、伝承によれば青表紙本とは藤原定家の目の前にあったある写本の一つを忠実に写し取ったものであり、藤原定家の目の前にあったある写本とは別本の一つになるはずであるから青表紙本とは実は別本の一つにすぎないとして青表紙本を別本に含めて考える説である。

問題点
そもそも青表紙本の成立には不明の点が多く、藤原定家は多くの写本を照合したらしいが具体的にどのような写本を資料として集めたのかは分かっていない。
またその中からどのような基準で本文を選んだのかも分からない。
現在残っている藤原定家の自筆本はごく断片的なものであり、できあがった定家の自筆本が一組だけなのかということも分からない。
(奥入に第一次奥入と第二次奥入の二つがあることなどから、現在では定家自筆本は少なくとも2種類あるとする考えが有力である。)
青表紙本が出来た経緯についても、源氏物語を極めて重要視した藤原定家の態度を考えると30年もの間源氏物語の写本を全く持っていなかったとするのは極めて不自然であるとする意見もある。
そもそも藤原定家は当時の本文の状況を「乱れていてどれが正しいのかわからない。」と認識しており、さまざまな写本を照合したが「本文上の疑問点を解決することは出来なかった。」と述べている。
このような記述しかない定家の研究成果が青表紙本であり、そのようなものを基準にしてよいのかという根本的な問題が存在する。

伝流
鎌倉時代には河内本が優勢で、今川了俊などは、「青表紙本は絶えてしまった。」と述べていたほどだった。
しかし、室町時代半ば頃から藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により青表紙本が優勢になり、逆に河内本の方が消えてしまったかのような状況になった。
ただしこのとき普及した三条西家系統の青表紙本は純粋な青表紙本と比べると河内本等からの混入が見られる本文であった。

江戸時代に入ると版本による源氏物語の刊行が始まった。
その際多くは青表紙系統の本文であった。
『絵入源氏物語』、『首書源氏物語』、『源氏物語湖月抄』等の版本も広い意味での青表紙本系統の本文であった。
多くの場合三条西家系統の青表紙本系の本文にさらに河内本や別本からの混入が見られる本文であった。
明治時代に入って活字本が出版されるようになってもこの状況はしばらく続き、与謝野晶子によるものなど、当時の現代語訳もこれらの本文を元に作られていた。

このように普及した青表紙系本文であったが、あまりにも広く普及し過ぎたために、大筋では同じであるものの細かいところが異なるきわめて多くの写本が存在した。
そして、そのどれが元の形なのかわからない状況であり、良質の青表紙系の本文を保存した古写本は存在しないといわれてきた。
そのため、池田亀鑑は当初河内本系統の写本を元に学術的な校本を作ろうとし、一度は完成間近まで作業は進行した。
しかしながら明治末期ころから本格的な古写本の所在の調査とその比較が始まり、大島本など良質な本文を持つとされる古写本がいくつも発見されることにより青表紙本をもとに校本を作成することが可能になった。
そしてそれらを基準として『校異源氏物語』や『源氏物語大成』といった学術的な校本が作成された。

主な写本

定家自筆本
現在、藤原定家の自筆本と認められるものとして、以下の4帖のみが断片的に現存している。

柏木、花散里(尊経閣文庫蔵 前田家本)
早蕨(東京国立博物館蔵 保坂本)
行幸(関戸本)
明融本
冷泉明融による写本。
桐壺、帚木、花宴、若菜上下、橋姫、浮舟については定家の自筆本を文字の配列に至るまですべてそのまま写したとされていることから明融臨模本とも呼ばれる。
定家の自筆本に次いで尊重されることが多い。

大島本
大部分が飛鳥井雅康による筆写と伝えられる写本。
ほぼ全巻揃った青表紙本系の写本の中では最も良質のものとされており、「源氏物語大成」を初めとする多くの校本の底本に採用されている。

三条西家本
室町時代に入ってから三条西実隆が「証本」を元に作ったとされる写本。
宮内庁書陵部蔵(三条西家旧蔵)。
三条西実隆による写本には他に日本大学所蔵本もある。
絵入源氏物語、湖月抄などの江戸時代の版本はこの写本の系統の本文に近く、源氏物語の解釈などには大きな影響力を持った。
しかし、本文自体は定家の自筆本などとはことなる点も多いもので純粋な青表紙系の本文ではなく河内本や別本の影響を受けたものである。
山岸徳平の校訂による(旧)岩波日本古典文学大系「源氏物語」(~)の底本になった。

[English Translation]