額田王 (Nukata no Okimi)

額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみとも、生没年不詳)は、皇極天皇朝から持統天皇朝に活躍した、日本の代表的な女流万葉歌人である。
また、天武天皇の妃(一説に采女とされる)。
額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが、額田姫王(『日本書紀』)・額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも。

係累他

『日本書紀』には、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(天武天皇)に嫁し、十市皇女を生むとある。
鏡王は他史料に見えないが、「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され、一説に宣化天皇の曾孫という。
また、近江国野洲郡鏡里の豪族で、壬申の乱の際に戦死したともいう。

額田王の出生地に関しては、大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。

『万葉集』『日本書紀』に見える鏡王女(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長『玉勝間』)、それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので、無理があろう。
また、表記の解釈は同様で、「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている。

十市皇女の出生後、天武天皇の兄である中大兄皇子(天智天皇)に寵愛されたという話は根強いが、確証はない。
状況証拠は『万葉集』に収められた歌のみである。
とくに、次の2首などをめぐって、天智・天武両天皇との三角関係を想定する理解が一般にある。

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)
しかし、池田弥三郎・山本健吉が『萬葉百歌』でこの2首を宴席での座興の歌ではないかと発言して以来、こちらの説も有力視され、学会では通説となっている。
晩年の王の歌としては、持統天皇吉野行幸に際して弓削皇子と交わした贈答歌があり、行幸の時期から推測して60代頃までは確実に生存していたと推測される。

なお、岡部伊都子や梅原猛らは、談山神社所蔵の「談山神社国宝」(国宝)銘文に見える「比売朝臣額田」について、臣籍降下した額田王の改名とする説を唱えている。
史料がないので真相は不明だが、王族のはずの額田王が朝臣姓を賜っている点はやや不審である。
もし、この説が正しいとすると、額田王は当時藤原氏一族の有力者であった中臣大島と再婚し、80歳近くまで生きていたことになる。

逸話

額田王が絶世の美人であったというのは、小説などでは通説となっている。
しかし、額田王に関する記述がごく限られている以上、その容貌について物語る史料があるわけではない。
梶川信行(『創られた万葉の歌人 額田王』)によれば、彼女の容貌については上田秋成の『金砂』が早い例だという。
つまり、上記の三角関係を想定させるような歌から、彼女自身のイメージが後附けされたものとみてよい。
この三角関係についても富士谷御杖(『萬葉集燈』)・伴信友(『長等の山風』)の発言など、江戸時代のものが早いと思われる。
ともかく、「伝説」は根強いものでもあるようで、梶川によれば、額田が美女であるとの根拠はないとの発言をしたところ、聴衆から食ってかかられたこともあるという。
これに類する逸話としては、伊藤博 (万葉学者)も、やはり額田王について一般的にもたれているイメージは確証のあることではないという趣旨の講演をおこなったところ、ひとりの婦人に内容の撤回を求められた、というものがある(『萬葉の歌人と作品』)。
聖徳太子にかんしても藤枝晃の講演をめぐって似通った逸話(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』)がある。
歴史上の人物というものが、史料からわかることと、一般に知られる像との間におおきな開きがある例として注目されよう。

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