ヨハニス・デ・レーケ (Johannis de Rijke)
ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke、1842年12月5日 - 1913年1月20日)は、オランダ人で、日本の砂防や治山の工事を体系づけ、「砂防の父」とも言われるお雇い外国人である。
彼の名前は、日本語では、ヨハネ(ニ)ス・デ・レイ(ー)ケなどと表記されることもある。
日本の土木事業(河川改修や砂防)における功績を評価すると、「お雇い外国人」ではなく「内務省技術顧問」や「河川技術者」などといった呼び名の方が相応しいとも言える。
幼少時代
オランダに生まれる。
兼業農家である築堤職人の息子として育った。
オランダ内務省技官出の水理学者であるJ・レブレットに出会うことから土木の技術者としての道を歩み始めることになる。
子供のいなかったレブレットは数学や力学や水理学など、土木工学に関する学問をデ・レーケに教えた。
デ・レーケの勤勉な姿勢に、大変、可愛がったとされる。
レブレットにとってデ・レーケは最初の教え子でもあった。
内務省お雇い技師
1873年に明治政府による海外の学問や技術の国内導入制度において、内務省土木局に招かれ、ジョージ・アーノルド・エッセル(エッセルは大学でもエリート)らと共に来日した。(エッセルは1等工師でデ・レーケは4等工師)
淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当した。
後に、ファン・ドールンやエッセルの後任として、内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮することになる。
水害を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的に重要であった水源の山地における砂防や治山の工事を体系づけた。
また全国の港湾の建築計画を立てた。
特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ成功させた。
日本中の現場にも広く足を伸ばし技術指導や助言を行ってもいる。
これらの業績は高く評価され、1891年、内務省勅任官技術顧問(内務省事務次官に相当する)の扱いになる。
ちなみに、奏任官は本省の局長級までの扱いとなる。
建設事業の竣工時において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケが関連した全土木工事おいて、一度も招待を受けたことがなく、また彼の名も記されていない。
あくまで内務省にとって彼はお雇い外国人(=裏方)であり、彼の任務は調査と報告書提出のみであってそれを決定し遂行するのは日本側である、という事情が根本的な背景にあった。
技術者としての誇りは相当に高かったはずだが、デ・レーケはそれを割り切っていたようである。
勅任官技術顧問~内務省退官
後に、工科大学校(現・東京大学工学部)を始め、欧米諸国の大学で水文学をはじめとする高等教育を受けた内務省土木局の日本人技術者が台頭した。
徐々に活躍の場を失うも、内務省勅任官技術顧問としての責務を全うした。
都合30年以上日本に滞在し、1903年、離日。
在日中に提出した報告書は57編に上り、2度受勲され、帰国に当たって日本の土木の基礎を築いたとして勲二等瑞宝章を授与される。
退職金は、現在の価格にして4億円に相当したとされ、当時の上官で内務省土木局長だった古市公威ら高級官僚らの労いもあったとされる。
中国河川改修技師長以後
内務省退官後、数年間はオランダに帰郷し英気を養った。
まもなく、オランダ政府代表として、中国の上海市の黄浦江の改修事業の技師長として現地に赴く。
辣腕を振るうことになるが、建設系事業者(建設コンサルタントと称していたが実際は浚渫系専門業者などの詐称)の、いい加減さ・中国政府の未曾有の混迷による事業費問題・ドイツやイギリスの政府および報道機関への対応の苦慮…などによる心労が重なり、命を縮めることになる。
1911年、技師長職を辞職。
同年1月17日に勲爵位(ライデル)が送られ名実ともに、貴族の仲間入りを果たすことになった。
オランダ政府代表として黄浦江改修事業の技師長としての功績によるものとされる。
2年後の1913年、母国オランダのアムステルダムにて死去する。
デ・レーケが指導や建設した砂防ダムや防波堤は、100年以上経過した現在でも日本各所に現存している。
1998年にはデ・レーケの孫が来日し、木曽川などを視察し、話題になった。