一条美賀子 (ICHIJO Mikako)

一条 美賀子(いちじょう みかこ、徳川 美賀子、天保6年(1835年)- 明治27年(1894年)7月9日)は、幕末 - 明治時代の公家女性、徳川慶喜・正室。
実父は今出川公久、養父は一条忠香。
昭憲皇太后は義妹。
幼名は「延君」(のぶきみ)、当初の諱は「省子」。

略歴
当初、徳川慶喜は関白一条忠香の娘・千代君(照姫)と婚約していたが、婚儀直前に千代君は天然痘に罹患。
そのため代役として立てられたのが延君であった。
延君は忠香の養女となり、「省君」と改名。
嘉永6年(1853年)5月18日(旧暦)に婚約が調い、江戸に下向。
安政2年(1855年)11月15日に結納、同年12月3日に結婚した。

慶喜との間に安政5年(1858年)7月16日に女子を出産するも、20日には夭折。
更に、その後夫が将軍後見職となり、将軍徳川家茂と共に京都に向かい、長い別居生活にはいる。
慶応2年(1866年)に慶喜は将軍となるが、この時も慶喜は入洛中であり、省子も江戸城大奥には入っていない。

慶応4年(1868年)1月にようやく慶喜は江戸に戻ってくるが、それは将軍職を返上した後のことであった。
更に慶喜はそのまま上野寛永寺、引き続き駿府宝台院にて謹慎生活に入り、省子は対面することが出来なかった。
明治維新後も慶喜は静岡市、省子は東京の一橋屋敷という別居生活は続いた。
この頃、「省子」から「美賀子」に改名。

明治2年(1869年)9月に慶喜の謹慎が解除され、その2ヶ月後に美賀子は静岡に向かい、10年ぶりに共に暮らすようになる。
その後、慶喜は新村信、中根幸という側室を抱えたが、その間に生まれた子供はすべて美賀子を実母として育てられた。

明治27年(1894年)、乳癌を発症。
術後の容態は思わしくなく、5月に治療のため東京の徳川家達の屋敷に移るが、回復せず7月9日死去。
享年60。
院号は「貞粛院」、墓所は東京の谷中墓地。

静岡で見送った慶喜に送った和歌(美賀子の辞世の句として紹介されることが多い)。

「かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき」

人物
慶喜との婚約自体が、代役として急遽決められた物であった上、慶喜は徳川慶壽未亡人・東明宮直子(とめのみやつねこ)女王と大変に仲が良かったため、美賀子は非常に寂しい新婚生活を送ったと言われる。
更に、結婚後3年経ってようやく授かった女子もすぐに死んだことから、ますます性格はふさぎ込むようになっていったと言われる。
慶喜の謹慎解除後になって、ようやく慶喜生母・吉子女王、直子の取りなしにより静岡に向かい同居した。
その後はそれなりに夫婦仲も修復したようである。
但し、美賀子は病弱であった事もあって、二度と子供を授かることは無かった。

因みに美賀子との仲はしっくりいかなかった慶喜であるが、美賀子の実家との仲は良好で、将軍後見職を務めていた頃には菊亭(今出川)家の世話になっている。

慶喜は将軍在職時に江戸城に入城しなかった事もあって、美賀子も将軍正室でありながら一度も江戸城へ入城することは無かった。

[English Translation]