万里小路博房 (MADENOKOJI Hirofusa)
万里小路 博房(までのこうじ ひろふさ、文政7年6月25日 (旧暦)(1824年7月21日) - 明治17年(1884年)2月22日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての公卿である。
来歴
父は万里小路正房、母は藤波寛忠の娘。
夫人は森長義の十一女・貞子。
子に万里小路通房、関博直、姉小路公義、河辺博長、千代子(裏松良光夫人)らがいる。
文政9年(1826年)に叙爵、天保4年(1833年)に元服し従五位下に叙せられる。
その後、度々の位階の昇進を経て、慶応3年(1867年)に正四位下・蔵人頭に任ぜられる。
また、同年11月4日には参議となり、同年12月9日の小御所会議に参加した。
そこで参与に任ぜられ、翌年2月19日まで同職を務めた。
明治元年(1868年)に従三位・権中納言に叙任。
その後は京都裁判所 (地方制度)総督、宮内省明治初期(1869年-1885年)、皇太后宮職などを務めた。
明治17年(1884年)に61歳で死去。
なお、博房の死去から約5ヵ月後の7月7日、子の通房に伯爵が叙爵され、万里小路家は華族に列した。