三島弥彦 (MISHIMA Yahiko)

三島 弥彦(みしま やひこ、1886年(明治19年)2月23日 - 1954年(昭和29年)2月1日)は明治期の陸上選手。
日本初の近代オリンピック代表選手となった。
「彌彦」とも書かれる。
父は警視総監の三島通庸、兄は銀行家の三島彌太郎。

経歴
東京府麹町区(現・東京都千代田区)出身。

2歳のとき父を失う。
学習院を経て東京帝国大学(現・東京大学)法科に進学。

成人男性の平均身長が155cm前後だった時代に170cmを超える長身を誇った。
学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手になった。
東大時代にはスキー術を修めた。
この他に柔道は二段、乗馬と相撲も行い、またスケートも大会に出場する程度には上手かった。
このように、スポーツに対する造詣浅からぬ青春時代を過ごした。
また、プレイヤーとしてだけではなく審判としても定評があり、早慶戦では審判を多く務めている。

1911年(明治44年)、陸上競技に夢中になりつつあった頃、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会代表を決める「オリムピク大會予選競技会」が羽田運動場で挙行されることになり、審判委員として来場するよう要請があった。
三島は要請には答えなかったが、このようなイベントがあることを知り、元々スポーツが大好きであったから、来場のうえ外野で学友と観戦しようと決め込んでいた。
ところが、後に本人が語るところによれば「生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やうという」という考えで飛び入り参加。
100m、400m、800mの各短距離徒競走で第一位、200mで第二位を獲得した。

予選会では、立高跳び優勝の後藤欣一、立幅跳び優勝の泉谷祐勝、走幅跳び優勝の霜田守三などの選手もいた。
しかし、選手団をストックホルムまで送る予算の都合などもあり、マラソンおよび10000メートル競走に出場が予定された金栗四三と三島の二人が選手に選ばれる。
以後毎週土曜日、金栗と二人してアメリカ大使館書記官キルエソンに師事して、陸上競技の様々な技法、心得を学んだ。
これにより、例えば400mは予選競技会時の59秒30が50秒台にまで縮まった。

しかし彼は「『かけっこ』如きで洋行してよいものか」という自己内部の迷妄、欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒が派遣されると誤解した文部省の無理解に苦しめられる。
しかし学友や帝大総長の励ましに後押しされ、卒業試験延期をも決して、五輪出場の意を固めた(卒業式は大会期間中に予定されていた)。

1912年(明治45年)5月16日、家族や、三島が所属していたスポーツ社交団体「天狗倶楽部」や野球試合で縁のある慶應義塾野球部のOB会である「東京倶楽部」のメンバーらが見送るなか、新橋駅(現・汐留駅 (国鉄)跡)からストックホルムへと旅立った。

1912年(明治45年)7月6日、旗手として開会式に登場。
出場選手わずか2名のため、行列人数が非常に少なく蕭条の観があったが、かえって群集の同情をひいた、と日本人記者は報じている。

当日午後いよいよ短距離予選に出場したが、最初の100m予選でいきなりトップに1秒以上の差をつけられ敗退。
スウェーデンではキルエソンの助言を得ることもできないため、すっかり意気消沈してしまい、金栗四三に以下のように語った。
「金栗君、日本人にはやはり短距離は無理なようだ。」

つづく200m予選は英米独3選手に敗れ最下位。
400m予選は100m、200mで金メダルを取ったラルフ・クレイグ(アメリカ合衆国)が他選手に謙譲して棄権したこともあり、見事準決勝進出の権利を得た。
だが、「右足の痛み激しきが為」棄権してしまった。
近年の資料では「精神的肉体的困憊のため」あるいは「勝機無しと見たため」を理由に掲げるものの方が多い。

金栗の競技も終えると、嘉納団長、金栗と語らって4年後のベルリンオリンピック (1916年)での雪辱を誓い、閉会式を待たずに出国、次大会開催国であるドイツに向かった。
ここでオリンピック会場などの視察をした後、砲丸や槍などの日本ではまだ知られていないスポーツ用品を買い込んで、翌年2月7日に帰国。

そのベルリン大会が第一次世界大戦で中止となり、8年間の中絶を経て1920年(大正9年)アントワープオリンピックが開催された。
だが、このころ既にオリンピックに出場できるような肉体を失っていたためか、予選にも姿を見せなかった。

1913年(大正2年)、帝大を卒業して兄・彌太郎のいる横浜正金銀行に入行。
青島市支店支配人を経、1939年(昭和14年)本店に戻り検査人に就任している。
大学卒業以降はスポーツ界から全く退いており、1954年(昭和29年)2月1日、東京都目黒区で死去するまで、メディアに登場したことがほとんどない。

人物
育ちのためか、性格はスポーツマンにしてはおっとりしていた。
天狗倶楽部の中心人物であった小説家の押川春浪は、次のように評している。
「三島君は大の楽天家である。」
「暢気な先生である。」
「度量の大きい、些事に無頓着なあくまでも鷹揚な人である。」

また、多方面に通じたスポーツマンであったことから学生や若者からの人気は高く、雑誌『冒険世界』が行った「痛快男子十傑投票」という読者投稿企画では、運動家部門で1位に選ばれている。

[English Translation]