三条実万 (SANJO Sanetsumu)
三条 実万(さんじょう さねつむ、享和2年2月15日 (旧暦)(1802年3月18日) - 安政6年10月6日 (旧暦)(1859年10月31日))は、幕末の公卿。
父は三条公修。
正室は山内豊策の娘・眉寿姫。
子に三条公睦、三条実美、河鰭実文、数姫(山内豊惇婚約者)、峯(細川韶邦正室)がいる。
1824年(文政7年)に大納言に任じられる。
1848年(嘉永元年)には武家伝奏となり、たびたび江戸に下って対米政策について江戸幕府と交渉した。
1857年(安政4年)内大臣となるが、1859年(安政5年)には日米修好通商条約への勅許を巡り関白九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣近衛忠煕とともに参内停止を命じられる。
これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣鷹司輔煕と権大納言二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。
これは長年朝廷の全権を握っていた摂関家が勅使となり、政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させるという公家社会始まって以来の出来事として衝撃を与えた。
1859年(安政6年)の安政の大獄で謹慎の処分を受け、出家して澹空と号した。
同年に薨去。
1862年(文久2年)に右大臣が、1899年(明治32年)に正一位が追贈された。