上野景範 (UENO Kagenori)
上野 景範(うえの かげのり、天保15年12月1日 (旧暦)(1845年1月8日) - 明治21年(1888年)4月11日)は日本の外交官。
人物
鹿児島県出身。
英学に明るく、明治維新後に、ハワイ王国の元年者移民問題などに当たる。
駐アメリカ合衆国・イギリス・オーストリアなどの特命全権公使を歴任。
後に元老院 (日本)議官となった。
趣味は油絵。
1873年(明治6年)5月、内閣に提議した李氏朝鮮との日朝修好条規締結問題における意見書は、征韓論の端緒となり、明治六年政変を引き起こすこととなる。
経歴
天保15年(1844年)12月1日、薩摩藩塩屋町にて長男として出生、通称敬助。
父は唐通事・上野泰助、母は上野雪。
安政3年(1856年)、長崎にて蘭学を学ぶも、後に英学に転じる。
文久2年(1862年)、英学をより学ぶため上海市に密航。
翌3年(1863年)幕府の遣欧使節・池田長発一行の上海市寄港に遇し、渡欧を企てるも失敗。
長崎に送還される。
元治元年(1864年)、薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」にて句読師となり、森有礼(初代文部大臣・明治六大教育家・商法講習所【現在の一橋大学】の創設者)等に英語を教える。
後にイギリスとの折衝役。
慶応元年(1865年)、奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人建築技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務める。
慶応4年(1868年)、寺島宗則の引きにより、明治新政府において外国事務局御用掛。
明治元年(1868年)3月、横浜裁判所御用掛。
同年3月 - 明治2年(1869年)、我が国最初の造幣器械購入のため香港差遣。
明治2年(1869年)4月、燈明台掛(後の海上保安試験研究センター)・税関に兼勤。
イギリス人土木技師・リチャード・ヘンリー・ブラントンとともに、神子元島灯台(静岡県)、樫野埼灯台(和歌山県)、伊王島灯台(長崎県)、六連島灯台(山口県)、佐多岬灯台(鹿児島県)等の建築に携わる。
同年7月、新貨幣発行に関し、大蔵大輔・大隈重信の邸宅にて大隈・中井弘・町田久成等と協議(後に大隈は新貨幣の図案を彫金の加納夏雄と弟子の益田友雄他2名に、文字を大蔵省に勤めている書家の石井単香に委託することを決定)。
同年8月、民部省監督正。
同年9月 - 明治3年(1870年)2月、ハワイ差遣。
ハワイ王国へ集団移住した初めての日本人、いわゆる「元年者」が現地にて労働環境など様々な問題に直面し、それが国際的に報道されたため、政府の命により特命全権公使としてハワイに赴く。
帰国希望の日本人40名、他3名が帰国し、王国側は移民の募集を行ったハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免を確約。
明治3年(1870年)5月、民部権少丞。
同年6月 - 明治4年(1871年)8月、大蔵大丞、特別弁務使として英国差遣。
差添に前島密。
鉄道敷設のために日本政府がネルソン・レー・前清総税務司(駐日英公使ハリー・パークスの友人)との間に結んだ資金借入・技術者雇用等に関する契約において、レーによる不正行為が発覚した件で、大蔵少輔・伊藤博文の命を受け英国に赴き、契約を破棄する。
英国東洋銀行(オリエンタルバンク)との間で鉄道建設用外債募集契約に成功。
また、租税権頭。
この前後、民部鉄道掛の井上勝、英国人技師長エドモンド・モレル達と共に鉄道敷設工事を進める(明治5年(1872年)5月7日には日本初の鉄道「汐留駅 (国鉄) - 桜木町駅」間18マイルが仮開業)。
明治4年(1871年)9月、横浜市税関・初代運上所長官(~5年2月)。
この前後旧幕臣八十岡清三郎の長女上野幾子と結婚、後に4人の子供をもうける。
孫には上野景福(東京大学教授)。
明治5月(1872年)2月、大蔵省3等出仕。
同年6月、渋沢栄一・是月栄一・井上馨達と連名で、正院に製紙事業を興すための建議を行う(後の抄紙会社、現在の王子製紙)。
同年9月、外務省3等出仕。
同年9月 - 明治6年(1873年)、アメリカ合衆国在勤(弁理公使・外務少輔・外務卿代理)。
明治6年(1873年)、小笠原諸島の領有権問題に関し、駐日英公使ハリー・パークスの訪問をうける。
同年3月25日、輸入薬品試験を行う施設の設立を求める上申書を政府に提出(後の東京試薬場)。
同年6月12日、内閣に議案として提出した在朝鮮を巡る問題について開かれた閣議に出席。
「朝鮮より退去するか、居留民保護のため武力を用いてでも日朝修好条規を締結するか」という旨の外務省案を提示。
同年7月 - 明治12年(1879年)4月、英国在勤(特命全権公使)。
明治12年(1879年)、帰国途中、5ヶ月の三男が病死、アデンにて埋葬。
同年9月、条約改正取調御用掛。
明治13年(1880年)2月、外務大輔。
外務大臣・井上馨の下で条約改正交渉に尽力。
明治14年(1881年)7月、兼議定官。
同年、鬱陵島の渡航問題に関し、李氏朝鮮より外務卿代理として抗議を受ける。
明治15年(1882年)7月 - 明治17年(1884)9月、オーストリア在勤(特命全権公使)。
明治18年(1885年)2月 - 10月、元老院 (日本)議官。
明治21年(1888年)4月11日、死去(享年45)。
ハワイ元年者移民問題
在朝鮮日本公館問題