中原師連 (NAKAHARA no Morotsura)

中原 師連(なかはら の もろつら、承久3年(1220年) - 弘安6年(1283年))は鎌倉時代中期の幕府実務官。
中原師員の子、外記を経て縫殿頭。

5代将軍となった藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王の3代に仕え、1263年(弘長3年)7月5日に二階堂行方の後を継いで宗尊親王の御所奉行、同年11月22日には御息所の奉行も引き継ぐ。
1264年(文永元年)評定衆となった。

鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲する。
その家系は「将軍側近の家」との性格をもっていたが、師連の子の摂津親致の代から中原性を藤原性に改性した。
また「将軍側近の家」のまま得宗家にも接近してその近臣ともなっている。
『太平記』巻10 「高時並一門以下於東勝寺自害事」で、北条高時の面前で腹を切った摂津刑部太夫入道々準は師連の直系の孫にあたる。

また『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。

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