中山勝時 (NAKAYAMA Katsutoki)
中山 勝時(なかやま かつとき、?-天正10年6月2日 (旧暦)(1582年6月21日))は戦国時代 (日本)の武将。
通称は五郎左衛門。
刑部大輔もしくは民部大輔を名乗る。
妻は水野忠政の娘。
水野氏(小河水野氏)と関係が深く、父「重時」もその家臣であった。
天文 (元号)12年(1543年)水野信元が現在の愛知県阿久比町宮津の新海氏を下し、その出城で榊原主殿が守る尾張国の岩滑城(半田市岩滑中町)を落とす。
その後、中山勝時はその新しい城主となり、この地を領した。
中山氏はかつて洞廻間(くけはざま:桶狭間)および北尾(現在の大府市北崎町)に住し、また法華宗の信者であったといわれている。
ちなみに、桶狭間合戦後、今川義元ら戦没者のための引導供養の大導師をつとめた、曹源寺(現豊明市大脇)二世の快翁龍喜和尚は、中山勝時の叔父あるいは大叔父にあたるという。
「張州雑志」など尾張において編纂された地誌には天正10年(1582年)本能寺の変の際に討死したと記されている。
一方で、「寛政重修諸家譜」には彼の死に関する記述はなく、ただ法名が「宗也」で「高野山に葬る」とされるのみである(新訂12巻238項)。
また天保14・1843年成立の「尾張志」では「京都二条城にて織田信忠と共に討死」したということになっている(歴史図書社刊行本、1969年。上巻789項)。
勝時の子「五郎左衛門」某および源右衛門「盛信」は水野忠重に仕え、また猪右衛門「勝政」、三男「勝尚」は共に織田信雄に仕えた後、天正18年(1590年)に徳川家康から上総国望陀郡に500石を与えられている。
勝政、勝尚の子孫は旗本となり、その中から出雲守「時春」(寛保1・1741年卒)「時庸」(ときつね、宝暦12・1762年卒)など大坂町奉行をつとめた者が出ている。
また五男「長圓」は野間大坊(大御堂寺大坊)住職であり、同寺中興の祖となった。
いずれも後述の尾張藩士中山家所蔵の文書を出典としている(「三百藩家臣人名事典」126項)。
しかし「やなべのあゆみ」で紹介されているように、家伝文書の作成に際し「尾陽雑記」所収の系図を参照していることから考えて、この名は先祖の系にあらわれる「光」と「勝時」から合成されたものであろう。
「寛永諸家系図伝」にも諱が示されていないのは、編纂の始まる寛永18年(1641年)頃には、その記録が旗本家に存在しなかったためだと考えられる。
「五郎左衛門」からすれば傍系であり、かつ尾張藩士「安井家」から改姓(延宝3・1675年)した女系の子孫に、彼の記録が残っていたとは思われない。
上述の福山泉龍寺は備後福山藩士中山家の菩提寺で、その過去帳には同藩水野氏に家老としてつかえた4代の名前がある。
初代中山将監「重盛」(正保2・1645年卒)、二代又兵衛「重治」(明暦2・1656年卒)、三代将監「重澄」(元禄1・1688年卒)、四代外記「重直」(正徳 (日本)4・1714年卒)であるが、彼らと「勝時」との関係は記されていない。
しかし水野忠重の家臣であった「五郎左衛門某」の子が、忠重の死後(慶長5・1600年)に水野勝成に仕え、血縁関係にある水野家の重臣をつとめたと考えるのはごく自然なことと思われる(前掲「三百藩家臣人名事典」6巻111項)。
「広島県史 近世資料編2」所収の「水野家在城時代諸臣分限帳」には「御家老」として次の4名が挙げられている(286項)。
水野玄蕃 3000石
中山外記 2000石
小場兵左衛門 1000石
上田四郎左衛門 900石
このうち福山改易後に結城藩に仕官できたのは小場家のみで、他の三家は浪人となることを余儀なくされた。
外記「重直」は京都において没したという(「三百藩家臣人名事典」6巻111項)。
また尾張藩士に中山姓を名乗る家があり、これは安井長高の子瀬左衛門長清が母方の姓を名乗ったものである。
この瀬左衛門の母は、勝時の三男・五平次「勝尚」の子「勝秀」の娘であるとの説がある。
その子孫七大夫和清は長沼流兵学を修めて「前後千を以て数ふ」門弟がいたとの記述が昭和9年版「名古屋市史」人物編2(復刻78項)にある。
明治の末裔元若は、岩滑に居住し、家族ぐるみで新美南吉と親交があった。
幼き日の新美南吉に民話を語って聞かせ、影響を与えたのは、元若の妻しゑであったといわれる。
彼の童話「ごんぎつね」に「中山さま」が登場するのはこうした背景があったからであろう。