丹波康頼 (TANBA no Yasuyori)
丹波 康頼(たんば の やすより、延喜12年(912年) - 長徳元年(995年))は平安時代の医家。
官職は針博士、丹波介、左衛門佐。
丹波国天田郡(福知山市)若しくは桑田郡矢田(亀岡市)の出身。
中国からの渡来人の流れを汲む坂上氏の分かれであり、遠祖には後漢の霊帝 (漢)があるという。
丹波氏に改める前は劉芳氏。
同時代における東洋医学の権威であり、永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上した。
これは、中国の医書を参考に当時の医学全般の叡智を網羅したもので現存する日本最古の医学書であり、本邦医学史上大きな足跡を残した。
そうした功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り、以来医家として連綿と続く丹波氏の祖となる。
子孫は代々典薬頭を世襲し、侍医に任じられる者を輩出した。
うち著名な者としては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。
薬学者の丹波敬三、また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・丹波義隆親子が末裔にあたる。
亀岡市下矢田町には、康頼が住み、薬草を育てたとの言い伝えがある「医王谷」などの地名が残されている。