丹波忠守 (TANBA no Tadamori)
丹波 忠守(たんば の ただもり、文永7年(1270年)?-康永3年/興国5年6月22日 (旧暦)(1344年8月9日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代 (日本)初期にかけての医師・官人・歌人。
丹波長守の長男。
法名は寂阿。
大覚寺統に仕え、後宇多天皇の元で医師の身分のまま、北面武士を務めて重用された。
権侍医・隼人正を歴任後、嘉元3年(1305年)5月7日 (旧暦)に従四位下に叙せられる(『実躬卿記』)。
後醍醐天皇が即位した文保2年(1318年)3月20日 (旧暦)に施薬院使に任じられた。
元徳2年(1330年)7月25日 (旧暦)に典薬頭に任じられた(『典薬頭補任』)。
更に元弘元年(1331年)6月15日 (旧暦)に宮内卿に抜擢された(『玉英記抄』官位部)。
当時の彼の抜擢振りについては、『徒然草』103段において三条公明に侮辱される話が描かれている。
ところが、元弘の変で後醍醐天皇の倒幕計画に関与した疑いで六波羅探題に拘束された(『花園院宸記』元弘2年(1332年)2月6日条)。
間もなく出家に追い込まれた。
二条為世門下の二条派歌人として知られ、忠房親王の歌壇の常連として二条道平や小倉実教などとともに名を連ねた。
勅撰和歌集にも『玉葉和歌集』以下11首が入っている。
また、内裏での歌合にも度々召された。
『増鏡』にも描かれた元亨元年(1321年)八月十五夜歌合や建武政権下で行われた内裏七夕歌会などにも召されている。
更に『源氏物語』の研究家として知られ、四辻善成に『源氏物語』を伝授した(『河海抄』序)。
東常縁の『東野州聞書』によれば、忠守は『源氏物語』の覚生(学匠)として知られ、頓阿とともに『源氏物語』読み合わせの際の「禁制詞」を定めたとされている。
更に医師としての立場や忠房親王とのつながりから西園寺家・二条家などの有力公家にも出入りしており、二条良基(道平の子)らとも親交があった。
康永3年(1344年)6月22日に京都にて死去したことが『師守記』に記されている。
なお、忠守を『増鏡』の著者と比定する説がある。
荒木良雄は当代きっての『源氏物語』研究家で歌道に精通していることから忠守著者説を唱える。
近年においては『増鏡』著者の有力説とされる二条良基の研究家である小川剛生の見解として、二条良基が『増鏡』成立に深く関わったとしつつも、現役の公家政治家でかつ最終的に持明院統に仕えた良基を直接の筆者とすることの困難を挙げて、「良基監修・忠守筆者」説を唱えている。